議席三段階・渡辺兵四郎

2020年04月29日

 第一代道議会議長は函館の船頭上りの平出喜三郎。彼は翌明治三十五年に政友会から国会を目ざして立起、札幌の元札幌農学校長であった森源三と、小樽小豆将軍高橋直治と共に当選した。

 代って議長になったのは、後に小樽官有地払い下げをめぐる黒い霧を演じて、園田安賢長官を失脚させた中西六三郎。そして兵四郎は副議長になったのである。

 中西は平出時代の副議長長谷七太郎の退職による札幌区の補欠選挙で当選、一権議長席を掌中に収めたのだからまさにまさに光彩陸離たるデビューであるが、第一期で副議長、三十七年の第二期で議長になった兵四郎も異例のスピードな栄達といえる。

 しかし彼は金と徳望がかわれて厭応なしに頭領に奉つられつたとの感が深い。第一期までの道議諸公の肩書を拝見すると、資産家が十人、弁護士が七人、開拓功労者が二人、地方徳望家が八人、所謂政治家が、いや政治屋が十九人となっている。

 兵四郎はさしあたり資産家に入る訳なのであるが、議長に選ばれたのは政治力よりもむしろ徳望のしからしむゆえんと云ってよいだろう。

 国会議員、道会議員と段を重ねた彼の足取りは国会に向うことになる。

 小樽の実業家の政界進出は、何といっても高橋直治が先導役を務めている。 

 兵四郎、板谷順介、寿原一族、金子元三郎、藤山要吉、篠田治七、岡崎謙、井尻静蔵、森正則、山本厚三、犬上慶五郎、野口小吉、岡田市松…以上が政経二本差組であるが、どちらかと云えば政友会のカラーが強かった。

 これに対抗する民政系では山田辰之進、秋山常吉、板谷吉次郎、夏堀梯二郎など弁護士、明治調でいう代言人が多いが金子、山本などが反民政系である如く、岩谷静衛や小町谷純なども反民政系である。

 さて兵四郎が高橋直治と代議士選挙でガブリ四つの大相撲を組んだのは、明治四十一年であった。

 昭和七年五月の〈小樽新聞〉はこの選挙を次のように伝えている。

 

 この選挙は今日に至るまで小樽の選挙はモウレツも度越へていると全国的に有名になった種を蒔いたものと断言できるものであった。選挙戦術としての秘策はあらゆる方法で行はれ、潜行運動は手ぬるとばかりに白昼堂々と札ビラを切っての買収戦が公然と行はれたのである。

 

 この新聞で云う事が見事毒々しい仇花に咲き誇ったのは、五百数十人の縄付きを出した大正六年の金子対寺田の選挙ということになる。

 明治四十一年と云えば電灯の架設が実現し(四十年)、水道の敷設に着手(四十一年)街づくりの近代化第一歩を踏出したころだ。

 明治三十年から十年がかりで開始された北防波堤千三百㍍も、広井勇博士の不惜身命の努力で完成した年でもある。対外貿易は木材を主として函館を凌ぐ勢を示し、人口は九万弱、で札幌、函館を抑えて首位。入港船数は三千隻を越え樽商の活力が未曽有のボルテージの高さをみせている。

 この向上性の市況の繁栄が派手な選挙戦をもたらしたが、開票、なんと、兵四郎と高橋は同点になってしまった。

 結局年長者の兵四郎が当選の幸運をひきあてた。しかし高橋は無効訴訟をおこした結果、兵四郎への票のなかから無効票が発見されてウッチャリの勝になったのである。

 しかし兵四郎は胸間に代議士章を輝かせ、後にも先にもないたった一回だけ議会に出席した。それは晴れの登院式であった。

 その時の古色蒼然たるモーニング姿は、同僚の軽悔の的になった。

 しかし兵四郎は平然としてうそぶいた。

 「このモーニングはな。第二回水産博覧会の時代に小松宮殿下総裁の御前に伺候した時の記念的礼装なんじゃ。諸君のように慌てて洋服屋の世話になるのとはちッとばかり訳が違うんじゃい」かくて兵四郎の代議士は槿花一朝の夢と化したが、それから以後彼は眼を愛する小樽のみ注いだ。

 四十三年に小樽教育会長。四十四年には初代金子元三郎、二代目山田吉兵衛、そして椿、龍岡の三、四代移入区長の後を継いで第五代の小樽区長になった。

 高踏的な金子や温和な山田とは異なって、遺憾なくワンマン風を吹かしたのが兵四郎である。

 

 君僕、です。ございますとは全く無縁。区使即召使いに他ならない。何しろ『てめえ』『おらあ』で頭ごなしに怒鳴りつける。区議に対して御お世辞一つを云う訳でもない。彼の同志ですら『渡兵はケシカラン』といきまく手合も現われた。

 しかし結果的にはこの野人肌の馬力がむしろ事務をスピーディーに進歩させる動機と基礎をつくったのである。

 まず彼は奥沢水源地に浄水場を完成させた。

 次に港湾埋立問題に終止符をうっている。公有水面の埋立は小樽区が実施すべきか。それとも法人でかあるいは個人でか三つ巴の論争は乃公出デズンバ―の俺が俺を生み出し、中立をいさぎよしとしない小樽の区民を興奮のルツボにたたきこんだ実に明治三十一年から十七年間も続いたのである。

 

 大正三年三月。政友会内閣の内務省調査による埋立工事計画案が提出された。この時運河埋立式を主張する者政友会系の寺田省帰、寿原重太郎、篠田、小松谷、磯野進など十七人。対する平面式は京坂与三太郎、奥村数次郎、米谷秀司、田中武左衛門の四人。そして中間の延期説は藤山、山田、井尻、岡崎、奥山富作、中谷宇吉、河野正治等民政系。

 一言居士の岡崎は篠田が普断着の羽織を着ているのは無礼だと、チャランケをつける一幕もあったが、兵四郎は断乎として職権で運河式を採決したのである。

 

 次の兵四郎の事績には第二大通りを境界とする下水道事業遂行の計画樹立と、市区改正計画事業の基本測量がある。小樽公園の設計計画も彼の仕事で、そのプランは日比谷公園を設計した庭園づくりの権威本多静六博士の手をわずらわして行われた。

 彼が筆に親しんだのもこの頃である。

 

 後に樺太庁長官、そして大阪府知事になった県忍が財務理事官として来樽したことがあった。その時彼は兵四郎に敬意を表して白扇をのべて揮毫を依頼した。

 俺は字は駄目だ…と断るにしてはその気性が許さない。ままよ無手勝手流にとばかり書きなぐったのは〈福在勤業 寿在守身〉の四字であった。爾来小野道風張りに六十才を越えてからの手習いにいそしんだが、号を一布として一角の達筆家になったのである。

 七十七才の喜寿の宴が開かれた時、かっての政敵高橋も出席した。他の有力者は次々に兵四郎に対する寄書の筆を走らせたが、残念ながら眼に一丁字もない無学派の高橋はええ面倒臭いと兵四郎の似顔を描いたというエピソードがあった。この放胆な気概、まさに好一対というべきだろう。

 

 区長を辞したのは大正五年。それからというものは毎日近所の朝風呂につかって、一流の警句を放ち若い者を苦笑させるのが日課であった。

 だが病根が老いたる肉体にを蝕みはじめた。肉腫が腸内に発見されたのは大正十一年である。その時彼は寿命を残すところ一年か一年半と宣告された。

 ところがその予測を裏切って彼は容易に倒れなかった。

 余命幾ばくもなしを覚悟した彼の最后の悲願は、明治天皇行幸記碑の建立である。永年抱いていたこの計画を発表すると、彼は老残の身をいとわず市内の有力者を歴訪して寄附金の勧誘を続けた。

 

 毛無山から石材を運搬するときも、不自な身体で音頭をとる姿は一種の執念ですらあった。昭和五年十一月…病疫が悪化して危篤を伝えられた。しかし彼は

 「大帝様の記念碑も見ないで死ぬ位だったら手当なんか止める。でなけりゃ俺は老い腹かッさばいでくたばってやるッ‼」と黙々をこねて家人をハラハラさせたという。

 しかし奇蹟的にも小康が保った。そして畢生(ひっせい)の望みが貫徹され、記念碑が完成したのは昭和六年九月二十四日である。

 その日の風雨は激烈。しかし乳母車に乗って式場に参列した兵四郎は、男涙にかきくれて並入る人の貰い涙を誘ったという。

 病いあらたまってい不帰の客となったのは翌七年五月十一日。告別式の行なわれた十四日は、彼が最後の桜を楽しもうと知人に観桜会の案内を出したその開催日。らんまんの桜花は、八十七才の剛直な男の屍の上に無心に散りしきった。

~小樽豪商列伝(8)

 脇 哲

 月刊おたる

 昭和40年新年号~42年7月号連載より