区長から代議士へ 金子元三郎(下)
2020年05月01日
元三郎が初代の小樽区長(官送)になったのは明治三十三年一月、丁度三十才であるから論語調でいけばまさに三十に而立ッ-というところだ。この人生の句読点で、上昇気流に乗る港町の采配ぶりに収まったのはまさに男子として欣快の至り六法を踏みたいところだ。しかし青年区長は一夜にして誕生したのではない。それまでは紆余があり曲せつがあった。
本命とみられた候補は宿老の山田吉兵衛。しかし老骨無惨をタテにして固辞した。次は高野源之助、添田弼といった人望家が候補にのぼった。
また高野は前道庁内務部長の坂本俊健をかつぎ出そうとして奔走した。ところが「小樽区政に新風を‼若さとエネルギーの金子先生を‼」と云ったかどうかは不分明だが、艀の大親分である鈴木吉五郎の乾分で、後に沖仲仕大争議で脚光?を浴びた浜名甚五郎と共に、艀の大立者と目されていた鈴木市次郎が強力に元三郎を推挙したことによってケリがついたのである。
当時の道長官園田安賢の当面の課題は、小樽港湾埋立と近文アイヌの立退問題であったが、元三郎が園田の十八才の娘たか子と結婚したのは三十二年の六月、したがって小樽の有力者は元三郎の閏門を利したいという計算を働かせたのだともいえる。
八年にわたる長期在任の園田の失脚の原因となったのは、小樽の土地の払い下げ問題であったのも皮肉な話である。園田は薩摩藩出身で警視庁総監二度就任の大者。二宮尊徳流の勤倹貯蓄をスローガンにして、全道を行脚したあたり戦争中騎馬で民情視察をし、ごみ溜の中から葉ツバの端切れをひろいあげて「もったいない‼」と一席ぶッた東条宰相もどきのエピソードがありそうだが、札幌一の料亭いく代を夜の道政のセンターにし、利権取引をほしいままにした明治版日本のジキルとハイドででもあった男だ。
明治三十八年ごろ、増毛と留萌間に鉄道を新設することは三年来の懸案であった。園田は実弟が増毛支庁長であったことを利用して腹臣の代議士坂本勘五郎と留萌附近の数百坪の土地を買い求めたが、この買収費と議会運動費の調達のために北海道土地払下げ規則に着目した。士族の家禄奉還者には一人十万坪に限り上千坪七十五銭、中五十銭、下二十五銭で払い下げるという有難き仕合せの特令である。
園田は熊本県の徳永えいという者の名を名儀にして、一万五千坪を僅か九円二十二銭一厘で払い下げそれを坂本に与えた。堺町、奥沢町、花園町、稲穂町、入舟町、高砂町、真栄町にまたがる時価二十万円の土地を僅か九円二十二銭余‼これを摘発したのが札幌選出の代議士中西六三郎。これによって園田が免官になったのは三十九年の末である。
なお園田は長男の妻に元帥東郷平八郎の娘を迎えたことも付記しておこう。同じ薩摩藩出身ながら園田と東郷ではいささか開きがあり過ぎるようだ。ともあれ港湾埋立問題も、とかく区と道庁のえがらっぽい煙幕が垂れこめて、元三郎の閏閥も功を奏しなかったのは間違いがない。
区長の椅子に座った元三郎は彼の好みで、幹部クラスに早稲田出高文合格のインテリを吸収して、うるさ方から身を護る策を計ったがなすべきことは余りにも多かった。
庁舎の新設、塵芥処理施設の整備、住ノ江色街の移転、町の区割り。こうして経費は雪達摩式に膨張してゆく。反対派は得たりとばかり「若僧に何が出来るのか」の攻撃の矢を放った。
三十四年度の予算編成で教育五ヵ年計画の中の高女、商業学校の新設問題が難航した。区有地の処分をめぐって激突し、結局新設案は葬り去られてしまったのである。
元三郎は三十四年十二月にバトンを山田吉兵衛に譲った。理由は坐骨神経痛、しかし若輩ソノ任ニ応ズが正鵠を得ているようだ。なお区長在任中の三十三年九月に発足した政友会の入党を交渉されたが彼は拒絶した。以後高橋直治や寺田省帰、小町谷純等口と手併せて十六丁の徒を敵に廻すことになる。
区長で地方政治というものを経験した彼は、議政檀上を国会に求めたくなった。三十五年の高野対高橋直治の角遂戦には前者を推した。過ぐる二十七年の小樽取引所初代理事長選挙には高橋に敗れた厭な思い出があった。
ところが元三郎は高野翁をほったらかしてさっさと上京し、石川県の老政客の口説に参って立候補を声明、かと思うと取消してみたり一貫した態度を見せていない。
次の選挙は三十七年三月。此時強敵高橋の参謀の板谷宮吉は「俺は福山で金子さんの先代にお世話になった身じや。したごうて今元三郎旦那を相手にして戦う事はとても出来やせん」と言われて断念した。前の年に当選し十一月の解散後に政界生活を断念した高野も立たず、結局元三郎は漁夫の利を得て無競走で当選してしまった。
越えて大正三年四月。港湾の埋立が寺田、小町谷、篠田、磯野進、寿原重太郎など政友会系区会議員の主張する運河式に軍配があがった頃、また道議も政友会の力が強固であった。この時の選挙では山岡流八段の蛮勇の西久保長官が政友会討滅の挙に出て、大者の本武や木下成田郎などが相次いで討死。元三郎は四尺八寸の小男であるが東京高商出で、才気横溢の寿原重太郎を屈服させて当選している。
そして憲政会北海道支部の結成と共に支部長に収まった。
しかし代議士としては彼の地元での評判は悪い。議会報告会も開いたことがないし、選挙母胎の実業会から何時の間にか浮いてしまった。
大正五年十月ビリケンこと寺内内閣成立。そして六年四月に解散。豆ブームで沸騰する小樽には前代未聞の選挙戦が展開された。元三郎対寺田省帰である。
「入船町のあの風呂屋は憲政会だからボイコットすべや」
「俺の娘は政友の息のかかった奴にや絶対くれぬ」…とにかく全区挙げての対決となったが、どうやら元三郎が勝つことが出来た。
ところがこれはたぐいなき不公明選挙で元三郎側は三百五六十名、寺田派は百五六十名の検挙となった。勿論留置場には入りきれない。寺田の参謀は地下に潜る。山田町からは軒並み検挙される有様であった。
こうして元三郎は禁固五カ月ただし執行猶予三年。とんでもないところで有名になったが、大正八年六月のベルサイユ条約締結で恩赦になった。これですっかりこりたのか、以後彼は政治の道を乾分の山本厚三に譲り多額納税の貴族院議員に収まった。厚三は父の九右衛門が高島、羽幌のニシンで儲けた組であるから元三郎とは同業の士になる。この厚三は大正九年五月の選挙で寺田を破って元三郎の雪辱を遂げた。
なお厚三の弟子は椎熊三郎。この三代にわたる系列は立憲同志会(大正二年)―憲政会(大正四年)―立憲民政会(昭和六年)を経て戦後の進歩党(昭和二十年)―民主党(昭和二十二年)の政党の系譜と同じ道を歩んでいる。
さて私の〈小樽豪商列伝〉は元三郎篇になって二回連続になった。しかし彼は私の筆法では、豪商に非ず専ら政治家元三郎として描かれているようである。一体彼の実業の正体は何なのか曰く漁業、曰く海運。海産物販売、鉱業、銀行、保険…たしかに当時の実業家と同じように、コンビナートシステム張りの多角経営屋になっている。
しかし商人元三郎の顔は、政治家元三郎の顔の背後に埋没してサッパリ明瞭ではない。すぐれた〈小樽市史〉を編纂されている人達ですら、元三郎の事績はこと商売に関しては十分の調査が出来ないとこぼしている始末である。
そこで最後にニシン漁合同会社の設立にからんだ元三郎の事績を、申訳的に記して〈豪商列伝〉の一人に列せさせる申し開きの代言としたい。
昭和四年頃、ニシン漁の不漁で多数の漁業家は危機の関頭に立っていた。道庁と共にこの道道組織の設立を企図したのが議員の山本そして親分の元三郎だ。これがもみにもんで肝心の融資も大蔵省からクレームがつき、当のプロモーターである小石水産課長も責任をとって辞職。歴代長官中無類の読書家といわれ紳士として評判のよかった長官池田秀雄もコヅキ廻されて青息吐息であった。
ようやく誕生したのは昭和五年十二月の暮。この合同会社の幹部には道庁、水産会、拓銀出の他、元三郎と山本が加わったから当然反対党からは睨まれた。そして昭和六年の暮に政友会内閣が誕生し、長官が佐上信一に代ると共に二人は手をひかざるを得なくなったのである。
かつて小樽でトノサマ呼ばわりされ颯爽とした存在ぶりをみせた元三郎も何時の間にか溶暗の形で小樽から離れていった。
緑町の直行寺は、金子家のために建立したかの如き菩提寺であるが、元三郎は最上町にある墓石ですら東京に移してしまった。そして最後の引越を終ったのは山本が脳溢血で倒れた年である。
富岡町の彼の豪壮な邸宅は人手に移り、現在菅原組のアパートになっている。家業は何時中絶したのか、それも定かに判らないまま消えてしまった。彼の後継者は今どうしているのか。ニシン合同問題の頃は、大蔵省預金課長のポストに就いていたが現在の消息は調べるすべもない。
こうしてみると元三郎はたしかに好況時代の小樽の坂道を、坂とも思わず闊歩した覇王たる面影が濃密な男であった。それにしてもその末期は曖昧模糊として捉えどころがない。さしづめ龍頭にして蛇尾であったとでもいうべきか。
~小樽豪商列伝 (6)
脇 哲
月刊おたる
昭和40年新年号~42年7月号連載より
小樽の建築探訪 より
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