精米の京坂与三太郎

2020年04月18日

 海運ルートの連絡によって、日本の米産地北陸各地と直接結びついていた小樽港の住民は、その地の利を得てこと米食に至っては不自由を感ずることなどはあまりなかった。

 例えば開拓使時代札幌本庁管轄の各地のなかで、雑穀混入どこ吹く風で米食オンリーの恩恵をうけていたのは、僅かに小樽と古宇郡の住民だけであった時もある。それはさておき、まず北海道の移入米の事情について述べてみよう。

 明治十年の開拓使記録によると当時の北海道移入品の首位は命綱の米で。全移入品学四十二万百四十七円の多きに及んでいる。

 開拓使の紅毛碧眼の軍師の北海道稲作不可能論は云わずもがな、時の開拓使達にしてみれば手取り早いイモや麦、ヒエなどの種つけが大童であったから、米はもっぱら内地からの移入に頼っていたわけだ。

 その米は良質な越後米や越中米が多く、これに次ぐのが庄内米津軽米で、秋田米は品質が悪くて誰しもが顔をそむけた。

その陸揚港の花形である小樽港は、明治中期になっても全道の四割を占めているし、‶首都〟札幌ももっぱら小樽商人との取引きに頼っていた。しかし移入米の大半は玄米であるから、小樽にはどうしても精米等が盛んになってくる。

 二十九年の小樽精米工場は十六ヶ所。生産額は三〇八〇二四石で全道一。大正三年発行の〈小樽〉と称する分厚い市勢要覧の〈工業と生産状態〉の項の中では、大正二年の小樽の工業生産額七八五〇〇〇円のうち、精米は四六六三〇〇〇円で七割に及んでいる云々とある。

 さて、この小樽では勿論全道でも巾をきかせていた精米工業の中で最大の資本と規模をそなえていたのは共成株式会社。そしてその中興の祖が京坂与三太郎である。

 明治十年代。小樽、高島両郡を分つオコバチ川(妙見川)の畔には、何軒かの小規模の精米所が単調な音をたてながら水舎を廻していた。夏には水涸れ冬には凍結で、たちまち機能を停止してしまうという幼稚なものである。

 ㋚、棚綱、甲崎、酒井、佐賀、山根などがこの商売の者達だが明治十九年に移入米の主産地富山県から来た一人の男が、創意をめぐらして旧時代式の水車を改造した。その男は沼田喜三郎という。

 喜三郎は天保五年三月、木曾義仲の軍談に有名な越中の東砺波郡新西島村の百姓大工兼業の貧家の生れ。十二才から大工稼業に入って江戸や関八州と郷里の間を往き来したが、染工、土方もやって結局二十六才になって郷里での百姓の仕事に収まった。

 ところが妻子を置いて北海道に渡って来たのは四十九才であるから、笈を負いて郷里を出づとか青雲立志と呼ぶにはいささか縁遠い。ともかく腰をすえて水を車輪の下からかけるというこれまでの水車の仕組を、逆に上からかけるという構造に改良したのである。

 

 今日ではさしづめ特許ということになりそうだが、当時にはシチ面倒臭い掟がないのでたちまち沼田流儀が伝播した。同じ東砺波郡の東山見村京坂与三太郎が喜三郎を頼って来樽したのは明治十九年四月。三十二才の分別盛りであるからこれも一旗組では晩熟である。

 彼は安政元年の四月生れ。代々神社や仏閣の造営では卓才を放った工匠の家柄だったが、父甚右衛門の代になって百姓と雑穀商の兼営に転じたしかし長男の彼が家督を継いだ頃は家業は二進も三進もいかなくなっていた。いかにして活路を得んか…拱手する彼に対して遥かなる海路の果から呼びかけてくるのは不定型の魅力に脈うつ北海道であった。

 僅か十三円五十銭の金をふところにした与三太郎は、成功の暁には必ず北海道に呼ぶ…と老父甚右衛門の痩せさらばえた手を握って伏木港を発った。

 喜三郎のところにワラジを脱いだ彼は、喜三郎が奥沢村の勝納川に新しい精米所を設けることになっていたので、その米搗きをやることになったのである。

 いぶせき掘立小屋に起居して八台の臼に取組み、おらが国さの自慢の米をせっせと精米する彼は、余暇を盗んで僅かばかりの土地を耕した。 

 当時〈農業に従事する者は唯奥沢あるのみ〉(明治十八年札幌勧業課年報)で、小樽郡の農家は奥沢に集中していたが蔬菜を作ってそれを市街地に積出ていた彼等は比較的富裕であった。(余談ながら小樽での稲作の試みは明治二十年朝里の青山三蔵、鷲田筆五郎を嚆矢とする)

 

 明治二十四年四月。喜三郎は全道移入米の精米を一手に引きうける意気込みで共成株式会社を設立した。資本金は六万円。取締役は現在の福山醸造社長福山甚三郎の叔父米吉や、三木七郎右衛門、吉田三郎、そして札幌豊平の開祖阿部与之助、支配人は与三太郎という顔触れである。

 小樽の株式会社の歴史ではこの会社が最古になる。九月には朝里川畔に新精米所を設けたが五斗張り直径三間の日本最大の水車を置いて人目をそばだたせた。翌年九月の暴風雨で朝里川精米所の八百三十俵冠水という痛手もあったが、資本金は十五万円、三十万円、七十五万円、そして百万円と遂に小樽最大の会社に成長していった。まさに旭日光輝の成長産業である。

 二十九年には一躍地価がはねあがり新興地域の脚光を浴びた稲穂町にも蒸気精米所を置き、三十三年現在の精米は四万一千石、売り上げは五一六〇〇〇円になった。札幌の北四条西四丁目にも精米所を置き、全道各地に支店を張って東京以北随一の精米メーカーになった。

 その前に喜三郎の素志は農業開発にむけられている。精米事業の万事を安心して託すことが出来る与三太郎という男が居るからだ。

 明治二十二年、時の貴顕三条実美公を戴く華族組は雨竜郡に一億五千万坪という、気の遠くなるくらい広大な土地を払い下げてもらった。しかし同公の逝去と共に解散したのが二十六年。喜三郎は幹部の一人で明治三年十九才で来道し有名な東本願寺街道を開いた大谷光蛍を説いてその土地の一部の千万坪を借りうけた。その経営のためにつくったのが資本金十万円の開墾委託株式会社である。

 これは五ヵ年のうちに四百戸を入植させ、すぐれた洋式農法によって痩せた土地に栄養をあたえて血色を生き生きとさせた礎業の終った会社は三十七年に解散、やがてこの土地は丸井百貨店の始祖今井藤七が買いうけたが、道庁では喜三郎の偉業をたたえてその地名に沼田町と名づけた。これが大正十一年で翌十二年十二月、喜三郎は九十二才で亡くなった。

 一方小樽に根をおろした与三太郎は。当時の人と同じように千手観音になって多角経営に乗り出した。二十六年には父を招いて佐々木静二等と共に本間酒造部に加わる。これが後の虎政宗、しら梅の銘柄の京佐加合名会社の前身である。

 三十三年には船樹忠郎を社長に二万五千円の資本金でアブラナによる製油の小樽製油会社の設立(四十一年に火災で焼失)ついでながら朝里精米所も三十四年に火災に逢着している)また鉄道線路に隣接して北浜、港町に貨物積荷の便を計った倉庫を持つ共同倉庫株式会社が発足したのは四十年。社長が与三太郎で取締役は佐々木、本間賢次郎、野口小吉など。

 更に美深に工場を持つ北海道木材株式会社や、年三十万俵の肥料を製造し、その半分を北海道の市場に送る富山県伏木本社の北陸人造肥料株式会社には佐々木とコンビで経営にあたった。

 四十年に高島村川崎船漁業組合で漁港改修の計画をたてた時沢田某と協力して資本金四十万円の小樽漁港株式会社をつくった。これが四十四年の八月である。(結局資本繰りが続かず後に寺田省帰に譲渡してしまった)

 小樽経済界歴史の中で与三太郎は押しも押されもされぬ要人になったが、ハシカのように流行した政治熱に罹っていない。せいぜい商業会議所議員、区会員議員くらいでそれも極めて控え目な存在であった。

 近松門左衛門いうところの〈死ぬまで金銀を神仏と尊ぶ〉式の拝金主義に徹したわけでなく、学校、病院、道路橋梁工費慈善事業の拠出には人一倍熱心で、日赤特別社員に列せられている。しかし大正初期の未曽有の凶作に対処するため、大量の台湾米を仕入れたが、悪くてしかも高値でサッパリ売れず、これが会社の転落のキッカケをつくり、やがて‶寿原財閥〟の俊英英太郎の手に渡ることになったのである。

小樽 共同倉庫株式會社

小樽 京坂與三太郎邸ノ庭園

同邸ノ門前

(東宮殿下行啓記念北海道写真帖 小樽関係抜粋 明治44年発行 東京図案印刷(株)編)

~小樽豪商列伝(3)

 脇 哲

 月刊 おたる

 昭和40年新年号~42年7月号連載より