与謝野晶子・鉄幹と小樽(その1) 49

2019年06月15日

 歌人、与謝野晶子(明治11年~昭和17年)と、その夫である詩人・歌人の鉄幹(明治6年~昭和10年)が揃って来道したのは昭和6年であった。

 函館・小樽・札幌・旭川・登別を訪れたが、小樽では高商(現小樽商大)、市立小樽高女(現西陵中)と、東雲町にあった小樽倶楽部の3ヵ所で講演をした。

 特に小樽倶楽部で一般市民を対象にした講演会は超満員で、小樽市民の文学への関心の高さを物語っている。

 今月は、晶子と鉄幹(本名は寛)の人となりについて紹介して、来樽の時の様子をお知らせしたい。

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 与謝野晶子は情熱の詩人と言われているが、その作品と共に、鉄幹の妻として、また、11人の子供の母としても第一級の人であった。

 晶子は幼いころから文学少女で、土蔵の中で個展の原文を読みふける毎日を送った。明治29年に堺敷島会に入り投稿。明治32年、関西青年文学界の堺友会に入り、藤村張りの新体詩「春月」などを発表した。

 鉄幹は、明治33年に東京新詩体社を創立して、雑誌「明星」を発刊した。晶子はこ新詩社の創立と共に入会し、熱心な投稿を続けて注目された。晶子は雄壮で男性的自我を主張する鉄幹に熱烈な恋を寄せて、その年に二人は結婚した。

 旧短歌にロマンチズムの反旗をひるがえした「明星」は、当時の若者たちに愛読されたが、支持者と共に反感をもつものも多かった。

 それでも「明星」は歌壇の中心的存在として、佐藤春夫、高村光太郎、堀口大学、吉井勇、木下杢一郎など多くの歌人を輩出した。小樽にゆかりのある石川啄木も「明星」に刺激され、文学で身を立てようと上京したが、晶子を姉の様に慕っていたという。

 鉄幹と結婚して間もない明治34年、晶子は歌集「みだれ髪」を発表した。乙女の初々しい恋心を華麗に謳歌したこの歌集は熱狂的支持をもって迎えられた。

 『みだれ髪は、はじめて女流作家による画期的な新派歌集で、その鮮烈な自我の高揚と、多彩な美の乱舞……』とか『人間の官能解放を奔放にうたいあげたもの……』と評されて、晶子はいち早くスターの座についたのである。そして以後、浪漫主義の全盛を迎えた。

 また、日露戦争下の好戦的風潮を批判した「君死にたまふことなかれ」を雑誌「明星」に発表したが、この時代にめずらしい大胆な発言として多くの論争を呼んだことも有名である。 

 歌壇に名声を得た晶子は、明治30年、40年代に若くして「万朝報」など、新聞、雑誌の投稿欄の選者にもなっている。

 大正期にも歌集を出しているが、浪漫の歌風の基調は変わっていない。また、季節や自然美を讃える一面、多くの子女を抱えての生活苦を歌い、社会や政治への批判や風刺を折り込んだものも発表している。

 鉄幹は慶応大学教授、文化学院監としても活躍した。この二人が小樽を訪れ、講演と共に小樽の短歌を詠じている。

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 昭和6年祖佐野夫妻来樽の新聞見出し

B 平成4年 与謝野晶子の没後50年を記念して発行された郵便切手(拡大)

C 与謝野寛の「人を恋うる歌」と晶子の若き日のおもかげ

~HISTORY PLAZA 49

小樽市史軟解 第2巻 岩坂桂二

月刊ラブおたる 平成3年11月~5年10月号連載より