一画家と夫人 そして小樽 36
2019年06月12日
日展参与、光風会名誉会員であった小寺健吉(明治20年~昭和52年)は日本洋画壇の重鎮として多くの作品を残した。
生れは大垣市であるが、父親が銀行役員として来樽したので、健吉は小樽の稲穂小学校に通学している。
東京美術学校(現東京芸大)在学中の明治40年に、同窓の工藤三郎と共に小樽で羊蹄画会を結成し、小樽倶楽部で絵画展を開催したが、これが小樽画壇の源流となっているゆかりの人である。昭和52年、健吉90歳の卒寿展を東京で開催した折には、日展より顕彰状を授けたが同年9月にその生涯を閉じた。
そして、最愛の澄子夫人も平成3年11月に急逝された。その3日前に妹さんといっしょに観劇するなど元気であったというが惜しまれてならない。
小寺芸術に張りを持たせ、そして支えたのは澄子夫人であったと思う。
澄子夫人は妹の正子さんと共に、何回か小樽に来られたが、昨年6月にお会いしたのが最後となってしまった。
昭和57年、澄子夫人が初めて来樽されたとき健吉が育った富岡町の屋敷跡や、弟や友達と遊んだ浅草寺付近、通学路や稲穂小など、亡き夫を偲ぶかのように何枚も写真撮影した姿が印象に残っている。
そして、夫婦愛の一端として残された多くの三十一文字の歳彩にも心が伺われる。
健吉が寄せた歌
手をふりて旅ゆくわれを見送れる
いとしき君が姿を胸に
澄子夫人が寄せた歌
描き給ふ片辺にありて筆洗ふ
今日の終りを生きる幸
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澄子夫人から聞いた健吉の終幕も忘れられない。
病院で看護婦さんが『奥さん!小寺先生がベッドで何か、うなっているようですがすぐ病室へ来てください・・・』
健吉は趣味の豊かなひとであった。清元も習っていたが、その中で難しい個所があった。うなっているように聞こえたのはその清元であった。難しい個所も自分なりにうまくいったと思ったのであろう。『これでいい』この言葉が芸術家最後のものだったことに私は感銘した。
小寺健吉の弟は、小樽生まれの舞台俳優、中村伸郎であることは昨年本誌で紹介したが、その後間もなく他界された。
澄子夫人から届いた。「中村伸郎は亡くなる前日に、好きなビールと刺身をおいしそうに口にしました・・・」この便りを見て健吉と同じく。『これでいい』と言ったのではないかと私なりにそのとき思った。
昨年亡くなった俳優・イブ・モンタンも『存分に生きた。悔いることはない』と言い残したそうであるが、いずれも生涯の幕切れとしては一面うらやましいとも思われる。澄子夫人もまだまだ生きてほしかったが、人生を完全燃焼して悠久の空へ向かっていった。
妹の正子さんから、「日毎に寂しさが増してまいります」」という便りをみて胸がつまる思いがする。
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健吉はユニークな話術で若い人たちをひきつけたが、澄子夫人も日本舞踏、そして近年は中国語を勉強し、留学生を支援していた。また、「小樽はいいところです」といろいろな人を紹介してくれた方である。
明治・大正・昭和の息づかいが残っている小樽。その中でゆかりの人を語るとき、私は小寺健吉とその芸術を支えた澄子夫人をいつまでも伝えていきたい。
小寺健吉「三湖初秋」第3回日展出品作品
小寺健吉の作品の前で~右が澄子夫人、左が妹の正子さん(昭和57年市立小樽美術館にて)
~HISTORY PLAZA 36
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月刊ラブおたる 平成3年11月~5年10月連載より
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