藤山一郎と小樽 55

2021年03月30日

 本年8月21日、歌手の藤山一郎さんが82歳の生涯を閉じた。昭和6年、東京音楽学校(現東京芸大)在学中にレコード吹込みをして、校則によって停学処分を受けたが、その時吹込んだ「酒は涙か溜息か」「丘を越えて」、翌年の「影を慕いて」が大ヒットした。

 以後、昭和の歴史と共に1300曲を唄い、持論の「生涯現役」を60余年にわたって貫いた正統派の歌手であった。

 数あるヒット曲の中に、「東京ラプソディー」がある。昭和11年この新曲発表は全国にさきがけて小樽が最初であったという。

 このことは、昭和52年小樽市民大学講座の講師として来樽した藤山一郎さんから夕食を共にした折に聞いた話で、発表の会場は小樽駅近くの劇場(中央座か電気館)と言っていた。

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 昭和12年には、開道70年記念北海道大博覧会が小樽で開催された。港の特設演芸館では東京から一流芸人を招いて公演したが、その中に藤山さんも加わり人気を盛りあげてくれた。

 藤山さんは、昭和11年「東京ラプソディー」のほか、「東京娘」。昭和12年には「青い背広で」「青春日記」(いずれも古賀政男作曲)をヒットさせたが、これらの歌を小樽で歌ったと思う。

 現在のように、市民会館ステージのなかった時代でも中央座、電気館、松竹座、日活館、スバル座、東宝劇場で「実演」「アトラクション」という題目で芸能人が公演しているが、藤山さんも来ている。

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 市民大学講座で藤山一郎さんが昭和52年小樽を訪れたとき、ピアノ伴奏に福田和歌子さんを同行した。講義の演台に立った藤山さんの第一声は、ベートーベンの歓喜の歌であった。伴奏の福田さんは、戦後亡くなった歌手、松平晃さんの娘さんであった。福田さんは、小樽が初めてで、特に雪の小樽に強い印象を受けたようであった。

 講義前後の会食や空港間の送迎の車の中などで、藤山さん・福田さんと触れあえる機会を得たことは良い思い出となった。

 藤山さんは「小樽出身のジャズ歌手、ナンシー梅木は日本の低音歌手の第1号なんですょ」ということも教えてくれた。

 また、戦前の小樽の興行関係者の話や小樽市民に親切にされたことなど……、福田さんには江戸っ子弁、私には敬語を交えて話をされたが、その言葉の使い分けに感心したものである。

 この人の口ぐせは、「初めに言葉ありき」であったが、発音とアクセントの正確さは歌だけにとどまらず、その端正な容姿と明快なテンポの会話は忘れられない。

 後日、市民大学講座受講生の感想を送ったが、この礼状を頂いた。『――本日は、過日の御地での感想文をお送り賜り御芳情厚くお礼申し上げます。素晴らしい善意に満ちた方々のお言葉、甘えることなく今後も自分なりに努力し頑張り度く存じます――』

 次頁の楽譜も藤山さん自筆のものである。作詞が川平朝申、作曲が藤山一郎の「ハイビスカス」という曲である。昭和52年の春、音楽番組の審査委員長として来道した折、札幌のNHK放送局で書いて頂いたもので、歌詞も3番まで記されたいる。私は、この楽譜と礼状を記念として大切に残している。

 日本歌謡史に燦然と輝く国民栄誉賞歌手、藤山一郎さんが昨年8月に吹込んだ「赤坂宵待草」が最後のシングル曲となった。

昭和52年第4回小樽市民大学講座で講義の前に「歓喜の歌」を歌う藤山一郎さん(北陸銀行小樽支店階上)。

藤山一郎さん作曲「ハイビスカス」の楽譜。市民大学でもコピーの楽譜が配布されたが、これは札幌で書いた自筆のもの(25×22㌢)。

~HISTORY PLAZA 55

小樽市史軟解 第3巻 岩坂桂二

月刊ラブおたる 平成5年11月~7年9月号連載より

~2019.5.11