小樽のある双曲線 27
2019年12月28日
明治後期のある夏の日、2人の少年が小樽の海岸であそんでいた。そこに粋な姿をした画家が来て絵を描き始めた。
肩にかけていたカバン(絵具箱)を見たが、2人はそれが何であるかわからなかった。不思議に思いながらもその画家の後を追った。
画家は港から手宮を通って赤岩まで歩いたが、2人の少年も汗をかきながら共に歩いた。そして家に帰るとさっそく木をさがして画家が持っていた絵具箱と同じものを手製でつくり、その中に水彩絵具やクレヨン、クレパスを入れて喜んだ。
この少年とは、後に小樽洋画壇を築きあげた三浦鮮治(明治28年~昭和51年)と、その弟である兼平英示(明治31年~昭和21年)である。
画家とは、当時東京美術学校(現東京芸術大学)の学生で、夏休みに郷里の小樽に帰っていた工藤三郎(明治21年~昭和7年)であった。
工藤三郎は同じ東京美術学校で学生であった小寺健吉、長谷川昇と3人で明治40年に東雲町にあった小樽倶楽部で油彩の展覧会を開催している。三浦鮮治と兼平英示は毎日その展覧会場に通い、作品から大きな影響を受けたと後で述べている。
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大正の末ころ小樽の公園通りは昼夜とわず賑やかな街並みであった。当時、高商(現小樽商大)の学生であった伊藤整が友人の川崎昇といっしょに、この通りで文学の部費にあてるため高商石ケンを売っていた。その近くに喫茶店があり、そこに毎日の様にスケッチブックを持ったオシャレな青年がコーヒーを飲みに通っていた。
店の中には、いつもひとりでギターを持った青年が同じくコーヒーを飲みに来ていた。
スケッチブックを持った青年とは三浦鮮治であり、ギターを持った青年は、後に作曲家になった万城目正であったという。
私と三浦鮮治との出合いは、昭和24年の第3回市展からであるが、公私共にお世話になった恩人の一人である。
「コーヒーを飲みに行きましょうよ」という言葉と、この人のもつ美学のしぐさは亡くなるまで続いた。
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そして時代は昭和に入る。少し足の不自由な画家が野外で絵を描くとき、キャンパスや絵具箱をはこぶのに奥さんと3人の少女が手伝った。
画家が描いている間、邪魔にならないように少女たちは離れたところで遊んだ。
また、奥さんはその辺にある野の小さな草木に心をひかれ、それを家に持ち帰って鉢に入れて育てた。
それから何十年も過ぎて、その奥さんは小樽山草会や小樽小品盆栽会、北海道盆栽会のリーダーとして活躍した。この少女たちと奥さんの主は兼平英示である。
兼平英示の風景画をみると陽光のとらえ方に感心する。また兼平作品には少女を描いたものも多くあるが、モデルは自分の子どもだけに愛情が伝わってくる。3人のモデルのうちひとりは、長時間座っているのが嫌でよく逃げ廻ったという。
なお、この3人に名前をつけてくれたのは兼平英示の画友であった中村善策(明治34年~昭和58年)である。このうちのひとりは幼少のころ身体が特に小さかったので、中村善策や三浦鮮治など仲間たちが自分の着物のふところにその子を入れて、よく銭湯へ連れて行った。
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昭和54年、市立小樽美術館オープンの日、中村善策はある人と会うため早めに来館した。ある人とは兼平英示さんの奥さんと三浦鮮治の娘さんである。
「ヤ―ヤ―」「善ちゃん、しばらく…」その場にいた私は、その温かい交流のひとときが忘れられない。奥さんの兼平りつさんは昨年3月惜しくも亡くなられたが、私は多くのものを教えていただいたことに感謝している。
本年7月20日から9月1日まで、市立小樽美術館の特別展として「三浦鮮治と兼平英示展」が開催される。
この兄弟は小樽画壇のみならず、北海道美術史にも燦然と残る不滅の人だと思う。ぜひ多くの方々がこの展覧会を観覧されるよう念じている。そして小樽という地が画人に大きな役割を果たしたことをしっかりと観てほしい。
三浦鮮治のデッサン
兼平英二示のデッサン
兼平英示のデッサン
~HISTORY PLAZA 27
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