ご大尽輩出の華麗さ~㉖

2019年01月06日

 石狩漁場

 井尻正二がさいきん学者らしい良い本を出した。 

 題して「石狩湾」

 石狩湾の網元のせがれで小樽に住んだおやじさんと、大正デモクラシーの自由平等をつらぬこうとする息子、それに母をまじえた感動の青春時代を書いたものだが、住吉神社横の丘の上から兄弟で長橋の市立中学にかよっていたのをおぼえている。

 私の中学先輩に当る東大出の地球物理学者だが、バスにのらずに歩いて通学していたから、家庭のしつけはきびしかったのだろう。

 井尻の家は童話に出てくるような丘の上にぽつんとした赤い屋根の当時めずらしい洋館で、内部はイギリス風の豪華なインテリアであった。

 いまの市民は知らぬだろうが、井尻邸の裏、すなわちすなわち住吉神社の森の下の南斜面はなだらかなお花畑が奥沢町までつづいて、まことにはや牧歌調というか何というか夢みたいな一角で、井尻兄弟が中学卒業した昭和シングルあたりから畑がつぶされ、その赤土がトロで量徳小学校の前をとおって南樽の海の築港の土台になった。あのトロの音は何年つづいたろうか。そのあとが住宅地として造成され、これも何年もそのままであって私の競技の練習場になったものだ。

 だから、私の青春はこの付近のたたづまいと井尻邸と切りはなせない。それにわが母は、父と同じ民政党の井尻の家を何かの用でしばしば訪ねている。

 女郎は石狩へ

 井尻といえば丘の上の洋館。その洋館もやがて取りこわされて夢もなくなるが、ここは東雲町の板谷邸とおなじように石狩湾の海の色まで見とおせた。

 初代の板谷宮吉もそうだが、井尻も石狩の海の色を眺望して漁況を案じていたにちがいない。板谷のばあいは港に出入りの船の様子が気にかかっていたのだろう。

 小樽の明治の金豪にははっきりしたパターンがある。

 まず小樽が天然の良港であって沿岸一帯にニシンが海に捨てるほど獲れた。近くには秋の石狩川のサケ漁もある。サケの漁期には小樽の女郎屋の女がみな消えた。越冬にそなえてサケ漁の手伝いで貯金するのだ。むろん石狩の漁師を相手に超勤もしたことであろう。

 網元は、儲かると小樽へ邸宅を建てた。子供の教育のこともあった。石狩小樽場所の網元で古いのは松前藩の後押しで小樽場所はじめ二十三場所(漁場)を支配した福山町の恵比寿屋。滋賀近江の出身で、そのつぎに出てきたのがカラフトまで進出した栖原象兵衛という大網元で、亨和二年いまから二百八十六年の昔だ。

 集散場が現出 くりかえそう。まずサカナが獲れた。で、全部ではないが、ニシン大尽という大金持が網元の中から何人か生まれていく。

 そこへ手宮・幌内の鉄道ができた。豊富な石炭積出しのためである。それで景気がハネ上がった。一方、鉄道と幹線道路の発達で奥地開発が進み、小樽が一大集散地となる。農産物があつまり、とくに雑穀が小樽を雑穀相場地にしてしまう。ニシン大尽のつぎがジウヤマキを商号とする越後生まれ高橋直治をアズキ王にしてしまう。高橋は小豆の買占めをやり小豆の土俵をつくって相撲をとらせる。一方、船の出入りが多くなるから、回漕屋がふえて藤山要吉や板谷宮吉の財バツを生み出す。小樽は大尽の天下になり、大きな街になり政友と民政に分かれた政争が運河をつくれ、いや反対だ、高商をつくれ、いや反対だと議場で取っ組み合いのケンカがはじまる。そのいづれかを支持してカネを出してもらう新聞ができ、酒だ、女だとばかり北の誉の野口とか西尾、古谷などの醸造業が栄える。立派な宿屋も建って女郎屋がふえ、小樽芸者は全道一の偉容?を誇る。そこへ日露戦争がはじまって、「日本勝った日本勝ったロシヤ負けた」と小学生もうたうようになり、カラフトが小樽の新商戦地区に加えられ、寿原とか大尽に押しまくられていた薄利多売派がカラフト奥地への売込みでもうける。もうけるのはいいのだが、反動があって教育をうけた子弟どもの中に共産党が出てきて、安工賃の女工たちの哀歌がなりひびく。農村も儲けた連中は小樽に邸をかまえ、そこにムシロ旗をおしたてた連中をヨイショしたのが労働ボス。小林多喜二の「不在地主」のテーマだ。

 それと前後してカムチャッカのカニ漁、北炭、カニ缶の小樽製缶の基地化、木材も新宮商行、ゴム長は吉村一族、というぐあいだが、札幌の丘珠タマネギ、十勝の青エンドウは小樽からロンドン、フィリピンにつみ出される貿易がはじまってもいた。

 ただ、いくら儲けてもバクチをやったのは消えていった。

「開拓の群像」より

(小樽場所)幕末のオタルナイ(松浦)

 

~HISTORY PLAZA㉖

小樽市史軟解

奥田二郎 

(月刊ラブおたる39号~68号連載)より

 

『2019年、小樽は私をどこへ連れて行ってくれるのでしょうか。

 

また、ワクワクの一年が明日から始まります。

よいお年を!』