古き良き「小樽のひとよ」北防波堤は明治の聖人がつくった~⑭
2019年01月06日
気も荒いが仕事もやった長官たち
明治の初め、北海道へやって来た道庁長官など、いずれも血のしたたる大刀を握ったままのヤクザの親分みたいな連中ばかりであった。ヤクザとの違いは、維新の志士と言って、青二才のくせに徳川を倒した官軍の肩書だ。
たとえば三代長官の渡辺千秋。
これは信州の出だが、幕末戦争で甲州城を受け取り、ここを官軍の出店としたが、一日違いで甲州城を取りそこなったのが新選組くずれの近藤勇であった。近藤は地団駄踏んだが後の祭りで、この為流れ流れて千葉県江戸川べりの流山にたどり着き、ここで官軍に捕まって江戸郊外で首をおとされてしまう。もし甲州城へ近藤が入っていたら?は、後世の新選組ファンのむなしい‶結果論〟だ。
五代長官の原保太郎は幕府の‶大蔵大臣〟小栗上野介の逃げた先へ行って、一族一党百男十人の首をチョン切った官軍の一味。
で、その間の五代(→四代)北垣国道はどうかと言えば、志士平野国臣の一党に入って生野銀山代官所を襲撃して、今で言えば市役所をハチャメチャにしてカネをごっそりの一人。西部劇の銀行強盗を思えばよろしい。
平野が捕まったので、北垣晋太郎(幼名)も腹を切ろうとしたところ、母に説得されて思いとどまり、京都に出て柴田と変名して新選組らとチャンバラをやったあげく、官軍として北越戦争などに参加、その功で高知県、京都府知事、内務次官を経て明治二十五年道庁長官となった。もう斬った張った忘れてしもうたで、毎朝座禅をし、北海道の水田作りを奨励し拓殖計画のもとをつくっていた男爵。
若さを嗤ってはいけません
そのころ道庁長官というのは、内務次官や本州の大知事より上の連中がきた。ハラもすわっていた。
まだ若い技術屋の広井勇に函館修港をやらせ、小樽築港をやらせたのは当時大英断と言われ、北垣の功績は厳として残っている。あるとき広井を連れて空知視察をやったところ、若い技師が説明役になっている。
「いくつだ?キミ」
「ハイ、三十です」
と、聞いて北垣、
「まだまだ若いなァ」
と、言ったら広井、襟を正して
「若いからと言って嗤ってはなりません。明日のことは判らないのですから」
北垣は瞬間、そうだオレだって若いときは……と思い至って、広井の直言に涙が出そうになったと言う。
広井勇には、そういう人間的な力があった。それは多分キリスト者であったからであろう。
広井はとさの生れで幼名を生馬といった。この地方は男が強くなるようにと動物の名をつける。拓銀頭取をやった道JR会長の東條猛猪がその例だし、副知事をやって登場と同じJRへ入った佐竹土佐男にしてもズバリ「土佐」男、である。坂本竜馬以前からの伝統なのだ。
広井は明治十年札幌農学校二期生となり、キリスト教に入信、卒後に開拓使御用掛となって、ドイツやアメリカに留学さらに農学校教授と道庁土木課長を兼務した。
今も駅名に残る小樽築港を命じられたのは、函館工事を終わった明治二十九年で死んだのは大正三年、花園公園東山にひっそりと銅像が残っている。
思うに、彼の銅像は港の場所に移すべきだ。それが志というものだろう。(でも、こうサビれちゃネ)
責任というものは、こういうものなのだ
広井の先覚者たるは、小樽は季節風が強く、春あたり激浪が続くのを押しきったことである。あるときは暴風の為、北防波堤においたクレーンが海中に落ちそうになったが彼は神を信じてゆるがなかった。明治三十二年の十二月二十八日夜だったという。
その時、広井は銭函にいた。夜中、工事中の北防波堤が崩れる不安を抱いて、手宮まで風にもてあそばれるようにヒョロヒョロ歩いた。
「小樽港は入口が広すぎ、西北風による突風のため激浪が高く船舶の繋留の安定を欠き、明治二十六、七年に沿岸道路まで破壊し、船は覆没する損害があった……」
北垣長官が小樽築港を内相井上薫に説いた理由はこれであった。小樽大発展の真最中である。広井の工事は長さ15㍍、幅と厚さ8㍍、重さ850㌧のケーソンをレールですべらせて海上に投入していく画期的なもので、外海に対する築堤技術の草分けであった。すでに欧米の技術水準に達したと言ってよい。
北防波堤は明治四十一年八月完成、広井を継いだ築港所長が道庁港湾課長伊藤長右衛門で、彼は潜水技術をおぼえて水中から防波堤のすべてを調べていった。防波堤ができてから入港船がふえて年間二万㌧を超した。伊藤も小樽公園の銅像になっているが、「オレが死んだら防波堤に埋めてくれ」というのを聞いて弟子の松山千里(のち川崎建設)が、その執念にぞっとしたそうだ。
広井がいつもポケットに入れていた小さな聖書は古びたまま小樽博物館に残されているが、彼はまた伊藤に引き継ぐ時「今後防波堤に欠陥が出てきたら、すべて私の責任……」と、言い残している。
どうです?昔の役人は。
写真は奥田太郎(東京赤坂在住)
~見直せわが郷土史シリーズ⑮
小樽市史軟解
奥田二郎
(月刊ラブおたる39号~68号連載)より
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