大昔、小樽湾なんかなかった。(二)~①

2019年01月06日

  で、小樽で一番古いとなれば厚手の縄文土器群で三千年か五千年前と思われる。

 そうした時代はアイヌ民族かコロポックルか、それとも多民族かとなれば学説が色々にぎやかになるが、コロポックルは今日では説話にすぎないというのが定説である。というのは北千島にまでアイヌ族の祖先がいたことが実証されたからで、コロポックルがアイヌ民族におわれて北方へ消えたという説がなりたたないからだ。

 奈良朝前後、となれば千二百年前くらいだが、道南地方に肅慎と呼ばれた民族が大勢力をふるい、小樽付近もその勢力圏内にあったらしいが、肅慎の歴史的事実が認められても、その詳しい事はさっぱりわかっていない。学説もツングース系とアイヌ民族の二説に分かれる。一方、住吉神社裏山、水天宮山はアイヌのチャシ(城)だったとの説もあり、貝塚や竪穴住居跡もしないで発見されているが、わからないのは古代文字。まず富岡町と山田町の古代文字は漢字とか女真文字などの説があるが、手宮洞窟の墓碑、記号、文字、コロポックル文字、アイヌ人の家譜イタズラなど主張も多岐多彩にわたるだけで依然不明。いったい誰が、いつ頃、なんのために?

 いかがです、ちゃちな古時計をさがすアンティークよりもキミやあなたに通ずるかもしれない古代の大先輩のおもかげを探ってみては?

 (写真は小樽市史より)

手宮岩壁彫刻

上~明治十二年ジョン・ミルン模写

下~明治十三年開拓使模写

 

昭和二十四年七月中野吾一氏模写

 

~見直せわが郷土シリーズ①

小樽市史軟解

奥田二郎より