明治人の小樽⑤~㉓
2022年01月09日
没落なしは板谷だけ
明治の昔、アズキ大尽といわれた高橋直吉が小樽政界を牛耳っていた。
なぜアズキ大尽か?つまりだ、アズキの買占めで大儲けしたのである。
明治のカネで百万円といえば今の億である。高橋はウン百万円で北海道のアズキを全部買い占め日本の市況を狂わしてしまった。
相場は高橋の出方できまった。アズキを俵につめて土俵をつくり、その上で相撲をとらせてカンラカンラの高笑い。その金権のせいで代議士になってしまった。明治三十五年の第一回衆院選である。第二回の四十二年も渡辺兵四郎という実力者に惜敗するが、無効取消訴訟を起して勝訴し、代議士の権利をとりかえした。病を得て早く死んでいるが、かれがアズキをかくしてつめた倉庫が朝里や熊碓など、あっち、こっちにあったが、戦後の昭和四十年代に入ってみな消えた。残るはユメのあとの草むらだけ、いや草も今はアスファルトだ。
高橋は板谷宮吉の郷里の先輩で小樽で越後衆といわれる人たちのチャンピオンであった。アズキ、代議士、酒色、大豪邸にいたるまで望んで出来ないものはなかったが、寿命だけはどうにもならなかった。
板谷宮吉はこの高橋に商売というものをよく教えられた。高橋の生き馬の眼をむくようなやり方を大いに見習った。
しかし高橋の派手好みと政界入りだけはゼッタイとり入れなかった。高橋アズキ大尽も一代でほろびたが、これは政治にカネをかけたからである。昔の政治家は今のインチキ代議士なんかとちがって自分のカネで勝負した。「井戸塀」といわれるのはそのためである。死んだからカネが全くなく、残ったのは井戸と塀だけということだが、板谷宮吉はその意味で政治にはいくらあの手この手で引っぱられても乗っていかなかった。
つぎの条件は節約。これは一緒にくらした大番頭の柴野仁吉郎が筆者にいったことがあるが、まねしようと思いたっても生まれかわっても初代宮吉のようにはいかない。節約倹約ケチ吝嗇(リンショク)なんて言葉も当てはまらぬほどだったという。
そういいながら柴野仁吉郎は一番安いタバコの新生を三分の一にハサミで切ったのをキセルにつめて根元まで吸っていた。
板谷は小樽に出てきて工藤という小さな海産商の店員になって明治十二年に結婚した。
店の向いの六畳二間の家を借りて酒ものまず、うまいものもたべず、むろんフリンなんてとんでもない。いま生きていてもゴルフみたいな子供の遊びみたいなものに手を出すはずがないほどの商売一すじの生活をつづけ、同十八年に真吉(二代目宮吉)を得た。
小樽はそのころ幌内鉄道が開通して北海道で一番の経済都市になるとば口に入っていくが、店員を三年やって独立することになり港町の郵便局の向いに看板をあげた。
宮吉のねらいは海産からはじめて船で荷物をはこぶ回船屋になることであった。コツコツためたカネで船を買うのだ。その船で内地との往復で行きも帰りも荷物を満載して運び賃をとるのだ。船さえあればいい。あとは客をよびこむことだ。今の板谷商船は名前は商船でも、三井船舶に何隻か貸しているだけで、本筋は陸上の食料品とか多分野にわたる商売に変わっているが、初代は純すいの回船で財を成していった。
やがて大きな船を何隻も所有して板谷商船の名を広めるが、堅実を絵にかいたようなやり方と、先をよむ「商感」をもっていたこと、そのバックには、小樽へ奥地(空知石炭、十勝雑穀、上川木材)からモノがあつまり経済都市として厚みがふえたこともあげられよう。しかし、なんといっても「杉野はいずこ」が企業の発展に拍車をかけた。儲けたカネは寿原一門と同じく全道にわたる土地を買うのにつかわれた。
二代目の宮吉はの早大出のインテリで小樽市長をやり農地解放を戦前にやっている。三代目宮吉も早大出の明朗な企業紳士で近代化のにおいがプンプン。明治の小樽財バツはニシンの祟りかすべて没落し、いまもってご繁昌は板谷と寿原との食品と家庭用品の二社だけ。邸がのこっているのは野口喜一郎一族が住んでいた西洋館そして港を一望におさめる丘の上の板谷邸である。
住吉停車場(現南小樽駅)
鉄道勝納川橋(北海道大学所蔵)
銀行広告(小樽区史所載、小樽銀行)
~見直せわが郷土シリーズ㉔
小樽市史軟解
奥田二郎 より
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そば会席 小笠原
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