もう少し

2018年10月01日

 開校後わずか二年目で児童生徒の転入学が増加して教室が不足になり、明治二十九年四月に、最初の増築工事が始まった。

 同三十年八月に中央と南方に二棟の平屋造りの教室と運動場が竣工し落成式を行っているが、転入学児童生徒の増加はなおも続き、同年十二月末の学級数は尋常科七学級、高等科六学級、計一三学級で在籍児童生徒数は六三七名、明治三十一年十二月末には尋常科九学級、高等科六学級、計一六学級、在籍児童生徒数は八一八名になってしまった。

 そこで明治三十一年には今までの校舎の山手側に、六教室と、裁縫室、運動場、支度室、職員・明治三三年の地図室、用務員室、機械室を増築した。そしてここに女子部が設置、翌年一月には女子部に裁縫専修科を創設して入校式を行っている。そしてここが間もなく稲穂女子尋常高等小学校になったのである。…。

 明治三十四年四月に新設された稲穂女子尋常高等小学校に女子児童生徒を移して、男子校として発足した本校に、大正十三年四月に尋常科の女子児童の一部を収容し、以後、校名は稲穂男子尋常高等小学校のままで、男女共学校となる。稲穂女子尋常高等小学校も存続しているので、校下の女子児童は、稲穂男子か稲穂女子どちらかに入学したのである。

 名称は稲穂男子尋常高等小学校でありながら、男女共学はこの後、戦後の学制改革で稲穂女子小学校と統合されるまで続くこととなる。…。

 

 昭和四十三年九月、富岡小学校の廃校が市議会で正式に決定される。

 こうして、稲穂女子尋常高等小学校として明治三十四年に本校から分離して開校し、昭和十六年に稲穂女子国民学校と改称、昭和二十二年には富岡中学校開校で児童を分散・移籍したが十年後の昭和三十二年に富岡小学校として再発足という数奇な変遷を経てきた稲穂女子小学校も、ここにその幕を閉じる事になったのである。

 …。

 

もう少し

稲女のこと 織姫のことが知りたくて

やってきました 稲穂小学校に

しかし、百年記念誌に載っていること以外は知ることが出来ませんでした。

校長室に飾ってあった

次に向かったのは

この場所に 

HТBまめ本 おたる西洋館 より

東山中学校

建っていたんです

で調べましたが

聯合運動会 量徳学校 『大行進』

残念ながら、『いなじょ』に関する史料を見つける事は出来ませんでした。

帰り道、見つけた

舞茸!

『北海道産ですか。おいくらですか?』

「小樽の人がとっているんだよ。2800円。味が違うよ。」

『ん~。冷凍して置こう。』(買おうとしましたが…)

「もう、売れちゃったの。来年まで出ないと思うよ。」

『バスでみた時、降りて、すぐ買えばよかった~。来年来ます。』

 

帰り道、りんごをいただきました。

奥 左が「さんさ」、右が「つがる」

青森出身の私が言うのもなんですが、だれかこのリンゴの名前を知りませんか?