漁船の目印・神木 完

2018年12月05日

住吉神社と海陽亭緣起

黒船が沖で錨を下し、さかんに開港を迫つてつゐたといふ數十年前の小樽山之上町は、アイヌが群居してゐた入舟古潭(入舟川)を境に北は手宮方面の漁村部落、南は‶赤い提灯の街〟金曇町(信香町)兩地をつなぐ一本街道で關門の役を買ひ嬌笑の巷へ通う人々にとつては地獄極、極楽、明暗交錯の分岐點でもあつた、同町は小樽發展の中心地で市の鎮守、住吉神社の御神體は山之上町の突堤にあつた、というても一寸解釋に苦しむかもしれないが、神社沿革はさておき當時漁業地であつたつた。小樽は毎年内地方面から多數の漁夫が出かせぎに來た、誰がどこから持ち來つて安置したかは不明だが海の守り神、厳島神社を建て、辨財天を祀つたその建物も粗末な祠で海の眺望よろしき地點をえらんだ、板子一枚下は地獄の職線に立つ漁夫は信仰心を昂めて漁に出かけたものである、その後(七十年前)奥州の人岡田八十八氏の依頼により今はおけさで有名な佐渡島、物部神社社司を代々承つた加藤左衛門尉政義氏(加藤商店先々代)が安政四年に來つてお守役を勤め市が發展するに從つて敬神思想が普及し現在の一時双葉女學校地に遷座、現縣社と昇格するに至つたといはれてゐるこの辨財天の跡に建築したのが水に因んだ海陽亭の前身西洋館建の洋食屋である、更に面白いことは當時點綴と生へた原始林は切り拂はれた中に神木といひ傳へられたタモ木、三本立竝び中の古木穴に地蔵尊を祀り漁師は辨財天を信仰する樣に老木を標識に舟を操つたものだ、かつては山頂にあつた同町も今は軒を竝べた商店街と化し相變らず小樽港内に臨んで移り變る時代のスピード化を過去の神地と傳説に落ちつきを見せてゐる

(寫眞は明治十五年の山之上町×が住吉神社、下は現在の山之上町

小樽今昔ものがたり(上) 変る地帯 完

 昭和十年十二月より

 

2018.12.5