日本一

2020年05月16日

 一生、ケチを押し通す

  初代宮吉 子孫に‶美田〟のこして

 『杉野はいずこ…杉野はいずこ』

 日露戦争の旅順港閉塞(そく)で散った広瀬中佐をたたえる歌、全国を風ビしたこのメロディーが板谷宮吉の耳にはいったかどうか。

 チャーター料のほかに沈められた政府保証金がはいるのではないか。彼はなにもおつきあいで悲壮な顔をすることはなかったのである。

 オリンピックと戦争はやはり勝つべきものだ。太平洋戦争で昭和十八年に五隻、十九年に四隻の計八万㌧が南海の藻屑と消えて板谷商船の手元にのこったのは二隻の一万四千㌧、沈んだ船の補償などあるはずがない。

 旅順港第二次閉塞につかわれた板谷の船は四千㌧級の弥彦丸と米山丸で、指揮官の斎藤七五郎、正木義夫両中尉は脱出してきたが、福井丸に乗っていた広瀬武夫、兵曹長杉野孫七の姿を気づかって離船がおくれ、一片の肉片と化した。これは板谷の船ではない。

 戦後、板谷にころがりこんだ補償金や傭船料が当時のカネで一千万円、思わぬ巨財である。すぐ三隻の外国船を買い入れ、資本金も二十万円からいっきょに百万円にあげた。こうなってくると副業の高利貸しも活気づいてくる。

 しかしこの宮吉の僥倖(ぎょうこう)も彼の辛苦がまねいている。山ノ上町の六畳二間の借家で西本ゼンを嫁にして、食べたいものにも手を出さず貯金々々で明け暮れ、港町郵便局の向かいでちっぽけな荒物屋をはじめたのが明治十五年で二十七歳の春。藤山要吉の店が同じ並びにあった。二代目宮吉(幼名真吉)はこの店で生まれている。この二代目も宮吉が病床にあった第一次大戦後にしこたま儲けた傑物だが、オヤジのドケチには到底およばなかった。

 初代宮吉は港に出入する大和(やまと)船や船長たちにとり入って信用を得、だんだん商品の委託をうけるようになるが、十八年の入舟町、二十年の永井町の両大火の類焼を浴びてガックリ、一時は途方にくれている。しかし貯金があったから再起できた。同時に彼は多角経営を考える。火事の教訓であろう。ニシンかすの買い占めもやる。先代の福山甚三郎と共同でショウユの醸造工場もはじめる。儲けたカネで船を買って日本海沿岸に魚カスや塩魚をもっていっては帰りに米や漁網をつんでくる。日清戦争では政府傭船でひと儲けして大きな船を買い、シナやオーストラリアにまで海産物を送る。ハワイやシンガポール航路もひらく。道内各地にぼう大な農場と山林を経営、倉庫業も大当たり、といった調子で日本金豪伝へとエスカレーションする。ガメつくケチであること、日本一の現金もちになってからも朝四時に起きて夜十一時前には横にならずに働いたこと、これが宮吉一生独自のモラルであった。番頭どもには『オレの真似だけやっていればよい』といい、息子はわざわざ郷里の柏崎の小学校へいれて、あに常太にド根性をしこんでもらっている。

 小樽の成金たちはさんざん豪遊して一生を終わり、結果は没落しているが、ケチを通して小田原の豪華な別荘で目を閉じた初代宮吉の本当の肝はどんなものだったのだろう。ソバ通が『ああ、たっぷりタレをつけて食べてみたかった』といって死んだ話はあるが、自分は犠牲になり、美田をたっぷり残して逝った宮吉は、いわゆるアイスではなく種族保存型の大使徒かもしれない。ピューリタンの心理に近い。対象が十字架と紙キレ(札)のちがいだろう。大正十三年、六十八歳で歿。

 二代目宮吉は早稲田を出て先代の後をつぎ、海運業を合理的なかたちで一層発展させた。副社長の義弟板谷順助がこれに協力。二代目は貴族院議員(多額納税)昭和八年から四年間小樽市長。戦後は大阪の十合(そごう)デパート社長、のち会長。昭和三十七年歿(七十八歳)いま板谷海運は三代目宮吉の時代だが、仕事はオカにあがってほとんど東京。しかし本社が他の地元資本の東京移転を尻目に、まだ色内町である。初代の執念がのこっていそうだ。

 

カットは阿部貞夫

さしえは伊東将夫

~北海道人国記 小樽⑤ 北海タイムス

昭和42年7月31日(月曜日) 奥田二郎より