女優・岡田嘉子と小樽(その3)39
2017年03月15日
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嘉子の舞台へのきっかけは小樽から
嘉子が舞台女優になることを両親は反対していた。それが認められたのは、小樽で開かれた催しがきっかけである。
父が小樽の北門日報にいたころ、嘉子が来樽し青春のひとときを過したことは5月号で紹介したとおりである。
その時期、北門日報社が東北地方の飢餓にカンパするため、舞台公演を開催することを発表した。嘉子はその舞台に出たいと何度も父に頼み、ようやく許しを得た。
嘉子は自伝「悔いなき命を」の中で次のように述べている。『当日はいとも勇敢に、めちゃめちゃの歌だの、ダンスだの演技だのをやってのけ……本職の俳優さんたちは、お世辞半分ほめてくれますし……父の顔色はだいぶ動きはじめました。そこで私はこの機会を外してはと一気に父を口説きました。父はなかなか、たやすくはうんと言いませんでしたが、私は日ごろのうんちくを傾けて、外国の偉い女優の話をそれからそれへと並べ、必ず自分もそれに劣らぬ女優になるから、と決意のほどをみせますと、父もついに「まあ、そう言えば嘉子は絵よりも、そっちの方が望みかも知れない」と言い出すようになりました……』。
有城三朗編「炎の女70年 フォト・ドキュメント岡田嘉子」によれば、その会場は錦座(現在の松竹ボウル)であった。
工藤正治著「終わりなき冬の旅」では、その舞台の様子を次のように記している。
『主演の嘉子が静かに登場する。水ぎわ立った美しい姿に、一瞬ざわめいていた観客はぴたりと鳴りをひそめた。洗い清められたようにきれいな、歯ぎれのいいアクセントが耳に快よくさえた演技がかもしだす喜び悲しみがそくそくと観客の胸をうつ。これほど美しい女優を見るのは小樽では初めてのことで、本当にこれが婦人記者なのか、と信じられないほどであった……』。嘉子が舞台へのきっかけをつくったのは小樽だったのである。
そして、上京し女優としての第一歩をスタートした。元禄袖の着物にマントを羽織り、おさげにリボンをつけた嘉子は松井須磨子の演技に魅せられていた。その須磨子が故抱月の後を追って自殺したのは大正8年1月。大女優須磨子の死と、嘉子のスタートが同じということも、日本新劇史のドラマかも知れない。
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平成4年2月29日、89歳で終幕した岡田嘉子の遺骨がモスクワから東京に帰ってきた。嘉子は否定していたが、博という子供がいたことや、秘められた謎の部分を残して、3月28日遺骨は四十九日法要の後、多摩霊園にある岡田家と夫滝口新太郎(昭和46年モスクワで没)の墓所に納められ、永遠の眠りについた。
戒名には嘉子が好きだった露と雪の文字が入っている。そして墓の横に建立された石碑には「悔いなき命を」という座右の銘が刻まれている。
嘉子がモスクワから寄贈した図書や書簡、写真など多くの資料は早稲田大学演劇博物館に残る。
青春時代、嘉子が忘れ得ぬ思い出と語った小樽は、初夏の陽ざしをうけながら昔の姿を残して今日も息づいている。
東京女子美術学校卒業のころの嘉子(17歳)。小樽の北門日報で父の手伝いをしていたのは、このころである。
昭和2年、日活映画「椿姫」の岡田嘉子と竹内良一。撮影中に2人は失踪したため代役で映画が作られた。
その後2人で作った劇団は、昭和4年小樽でも公演している。
昭和52年7月、日ソ協会道連主催の講演に来樽した岡田嘉子は、日程を別に1日組んで市内各所を訪れた。(写真右)左はその折に案内した私の兄・・・小樽祝津海岸にて。
~HISTORY PLAZA 39
小樽市史軟解 第2巻 岩坂桂二
月刊ラブおたる 平成3年11月~5年10月号連載より
右奥のマンションの辺りに錦座がありました
ぶらタモリで紹介された家もこの近くです
そば会席 小笠原
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