女優・岡田嘉子と小樽(その2)38
2017年03月11日
嘉子と小樽
岡田嘉子と小樽とのかかわりは、父が小樽区の北門日報社(現在の稲穂2~19)の主筆であったことから始まる。
嘉子は東京美術学校の洋画科に学んでいたが、あと一学期で卒業という冬休みに母といっしょに小樽の父を訪れた。それは大正6年の末であった。
三学期が始まろうとしても、父は返さないで翌年4月まで小樽にいた。そして卒業を7月まで延ばしてもらっている。
大正6年頃の小樽は、人口が約10万3000人、新聞社は小樽新聞、北門日報を含めて6社。銀行が17行、大きな料亭25、旅館30、劇場が10館もあり、北海道経済の中心的役割を果たしていた。そして大正7年には、開道50年記念博覧会をこの地で開催するという勢いのある時期でもあった。
嘉子は、自伝「悔いなき命を」の中で次のように述べている。
『ふたたび北海道へ帰ってからの私は、もっぱら図書館通いを仕事にして、北海道の伝説や文学書を読みあさっていました。~そのうち、父の新聞社に婦人記者として入社させて貰いました。
そのとき北門日報には、すでに婦人記者が一人いましたので、私の受け持ちはカットやスケッチ、それから小学校の訪問記事といった、まあ半分は遊びがてらの、早く言えば父のお道楽のようなものです。
ところが、肩あげも深い元禄袖の着物、さげ髪に大きなリボンをつけた16歳の小娘が、しかつめらしい顔をして鉛筆と紙を出しながら「こちらの学校の教育方針を…」などやり出すので、相手方は名刺と私の顔を見比べてキョトンとして、なかなか、おいそれとはしゃべってくれません――』
また、昭和59年に新聞社のインタビューに嘉子は次のように小樽の思い出を語っている。『新聞社は駅の近くにあり、家は緑ヶ丘にありましたから、いま、商大通りと呼ぶのですか。あの坂道を歩くわけです。~私がマントを着て、赤い帽子をかぶって歩く姿は目立ったらしく、緑ヶ丘にあった高商(現小樽商大)の学生たちが「赤帽子」と呼んで大さわぎしていたそうです~』
嘉子が青春時代に1年半住んだ小樽は彼女にとって忘れることのできない思い出の地になった。
だから、このときのインタビューで次のように述べ、住みたいのは北海道と言っていたが、それは小樽だと思う。『35年近い歳月をソ連で過ごしました。その間、雪どけの季節になると決まって小樽を思い出しました~土から陽気さえ上っています。顔を近づけると春のにおいが立ち昇ってくるのがわかります。遠い昔、小樽でこれと同じような情景に立ち会い、同じように夢中で春のにおいを胸いっぱい吸いこんだことをよく思い出しました~』
以上の文の中で、図書館は当時小樽区役所(現在市役所)にあったものである。
再び北海道へというのは、卒業後すぐに小樽に戻ったことを意味する。また、当時の小樽には、小樽高商(現商大)、中学校、女学校のほか小学校は11校あった。
嘉子の読書好きは有名であるが、4歳のとき父から文字を教えてもらい、5・6歳のころには自由に新聞や雑誌を読めたと本人は言っている。
(次号に続く)
嘉子が小樽に来た大正6・7年ころの小樽公園の雪景色絵ハガキ。
そのころの人たちの服装。着物姿に下駄、帽子やパラソルも大正時代を表している(小樽港にて)。
大正10年、舞台協会公演「思い出」に主演した岡田嘉子。
~HISTORY PLAZA 38
小樽市史軟解 第2巻 岩坂桂二
月刊ラブおたる 平成3年11月~5年10月号連載より
昨日、『何かやって来るぞ!』
やって来たのは
雹でした
そして
本日
小樽の春は
もうすぐ
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