小樽の活動写真と弁士(その1) 60
2019年04月25日
活動写真が映画と呼ばれるようになったのは大正八年ごろであるが、「活動を観にいく」ということばは昭和の中期まで続いた。
日本でトーキーの完成をみたのは昭和6年であり、それまでは無声映画であった。この無声映画の立て役者は、ナレーションやセリフでを語る弁士であった。
本道の場合、トーキーの映画であっても発声設備ができるまで、しばらくの間弁士が担当していた。
北海道活動写真小史によると、大正12年ごろ本道には190人(このうち女性が10人)の弁士がいた。有名だった弁士は、岩藤思雪、吉井天波、熊谷暁風、原紫翠、津田秀水、林天風、関楓葉などがいた。
熊谷暁風は、英語学校出身だけに洋画で名をあげたし、原柴翠は小樽の人である。昭和6年の関東説明者一覧には500人の弁士が紹介されているが、原柴翠は統師として活字も大きく上位にランクされている。
いつだったか正確な期日は覚えていないが、昭和30年代、12月1日の「映画の日」に小樽東映劇場で弁士づきの無声映画会があった。一般上映終了後からの催しのため、この無声映画会が終わったのは夜中になったが、広井劇場の1・2階共に満員の盛況であった。
映画の上映に先立って原紫翠が弁士の思い出話を語ったが、それは貴重なものだった。その後、昭和55年に中劇で「ああ活動大写真」と題して無声映画「丹下左善」をはじめ4本立で3日間にわたり興行されたが、これも盛況であった。弁士は小樽出身の東條秀声(本名佐々木武夫)が熱弁をふるった。
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弁士の中で、原柴翠と共に小樽で人気のあった人に関楓葉がいる。この人が一時、小樽を去るときに「敬愛なる皆様!!お別れのために」と書いた印刷物が私の手元にある。大きさは18×17㌢で約500字の文章であるが、その一部を原文で紹介したい。
『私が小樽に参りましてから六ヵ年の長い間、ぐにもつかない私の言葉に貴い耳を傾け僅かばかりの努力に負ひきれぬ御同情を下さいました。
その御恩に酬いひなければならぬため一時公園館を退きます。そして自由な体になってきっと皆様に捧げる何ものかを以て現はれますから待っていて下さいまし。思へば想へばほんとうに長い事よく愛して下さいました。
いまもうお別れしては今迄のように毎日お逢い出来ぬ事を考へますと胸がつまって涙が文字を滲ませて了ひます。
港の街の灯が吹雪に瞑し黒潮が凍水に緘する季節がきました。
お身体を大切にして下さい。さらば……』
たかが映画の弁士だからと言って無視はできない。一本の映画説明に生命をかけた人の筋の通し方に感心するものがある。
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無声映画は弁士と共に音楽はスクリーンの横やボックスで、バイオリンなどを弾く楽士がいた。「七人の侍」ほか映画音楽の第一人者であった早坂文雄も大正15年ころ、札幌の映画館で伴奏のトランペットを担当していた。
今は亡くなられたが、北洋相互銀行(現北洋銀行)の寿原九郎会長も若いとき音楽仲間といっしょに電気館でバイオリンで伴奏したことがあったと聞いたことがある。
弁士と楽士の呼吸の合った活動は人々の胸をおどらせたが、特に小樽、函館、札幌ではその関心が高かった。(次号に続く)
字幕に「流れて歩いた冬でした」の文句で始まった映画「沓掛時次郎」(昭和4年・日活)。主演は大河内伝次郎と酒井米子。
小樽で活動写真の弁士として人気のあった関楓葉の離樽あいさつ印刷文表紙
公園通りに、原紫翠君(弁士)と書いたのぼり旗が賑わっている。写真の左手前が公園館(現在の中劇)。
~HISTORY PLAZA 60
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