水族館由来

2017年05月22日

 『もうすこし早く自由党の候補が決まっていたら、わたしはおそらく出馬しなかったろうし、四選目のイスにすわるはずもなかったろう。わたし自身にも意外なことで、ひょうたんからコマ…』

 安達与五郎は小樽市長の初選のころをこう回想している。選挙の前年の十一月に改進党の高橋源次郎と社会党の島本虎三がたずねてきて、両党の統一候補にするから出馬せよという話から〝コマ〟がとび出したのだそうだが、高橋らは、安達の出身校の樽中票と医師会票で相当いけると判断したものである。安達は前回も出馬をすすめられているが、長男の在学中を理由にことわっている。

 『しかしむすこも北大医学部で副手をやっているから、ことわる理由はない。むすこと相談してみたものの二人とも当選のみこみはなかったが、説得にまけてしまった』

 翌日の新聞をみると両党の推選声明がでているので『えらいことになった』

 つぎは自由党候補が新谷専太郎に決まってビックリする。新谷が新会長の新学制実施協議会で安達が副会長、しかも樽中では新谷が五期先輩『早くにわかったらすぐにことわった。しかし矢は放たれた』でトラックに看護婦などをのせて、市政の超党化をブチはじめるが、ファイトがわかなかったという。しかも相手方は一万票差で勝つと豪語する。

 ところが開票すると二千三百票差で逆に勝ち、コトの重大さを痛感。あいさつはなによりも先に新谷のところへ行き『先輩、どうかご指導を』といったが、和服を着た新谷はションボリしていたそうだ。

 昭和二十八年長男の死。よほど投げ出そうかとおもったが、こらえて病院を長男の友人に貸して三十年再選を決意。しかしこの間、前市長寿原英太郎の残した赤字六千万円があって、十億円の一般会計で一億からの赤字がでそうな不均衡予算や永山政能淡川登といった助役の人事で苦労した。

 ところが戦後暗転の小樽にポッと明かりがついたのが三十三年の道博の成功であった。これは札幌単独開催の計画だったが『指をくわえてみているのか』と商工会議所や市民につきあげられた安達は、札幌の三分の一という一億五千万円の予算のメドをつけ、当時会議所専務だった三室光男や道商工部長高岡文夫をうごかして札幌と共催にもっていくべく走りまわる。札幌は貧乏都市は足でまといだから、ウンといわない。ねばりにねばって〝海洋もの〟だけならばOKをとり、水族館を祝津にきめるが、このとき議論百出『市長はバス会社に買収された』というデマがとび出す。

 フタをあけると案じた第三ふ頭と祝津会場は連日押すな押すなの盛況で大成功。二千万円の黒字となる。水族館の人波をみて、安達はふとクジラのキンタマがあったら、まだ繁昌したかもしれぬと考えて笑う。これは門司や下関の博覧会に展示して呼びものになり、小樽にも貸そうという話になったのだが、青少年教育に熱心な安達がことわったものであった。この道博は経済面の札樽協調ムードをうみ、新産都市指定の足がかりになったが、同時に再選安達の評価を高くした。

 安達は福井県芦原町出身で九歳のとき養父母と来樽、樽中―千葉医専―手宮町で開業のコースをいったんたどり、大正十一年に京大医学部に入学して皮膚、泌尿器科を専攻して医博、同十四年九月から稲穂町で開業の人。

 明治以来の懸案だった高架路線の完成はじめ科学館、学校の鉄筋コンクリート化、市民会館、小樽病院、産業会館、消防庁舎、市営住宅、商工会館、じんあい焼却所、朝里温泉センター開発、博物館、保健所、血液銀行、青果市場などの建設や塩谷村合併、札樽バイパス運動さらに石山貫通、日赤センター問題への努力など、さすが十六年間、よく仕事はのこしている。

 コマが歩から金になった。かれの足跡は近ごろはやりの銅像ものであろう。

カットは阿部貞夫

さしえは伊東将夫

~北海道人国記 小樽㉛ 北海タイムス

昭和42年8月26日(土曜日) 奥田二郎より

いきたい

行きたい

誰か私の子供になって、この日だけ

予約が入ったらどうしよう

『土器、土岐』

コスタ・ビクトリア

ブレーメン