明治政商 下
2020年04月29日
小樽はケンカ市会で有名。
埋めたて問題で連日騒然の区会、反対派の岡崎謙区議が『議長ッ』とドナリだす。
きいてみると、賛成派の篠田治七の着ているハオリが紋付きでない。『区会を侮辱するものであります』
これも小樽名物の傍聴席…
『そうだ…それでも議員か』『退場しろ…』『黙れッノーイッケツ』
篠田もまけずに『紋付きとは議事規則にかいてないじゃないか』…議場混乱。これが当時話題の礼服問答。岡崎、篠田ともに住ノ江町に邸をもつ成功者。 明治三十一年あたりから運河をつくるための公有水面の埋めたては区がやるか、法人か個人かの論争が展開され、北炭や三井物産、鉱業クラブ、石狩炭鉱、天塩木材らが埋めたてを出願した。
一方稲穂組といった実業陣は政友会の寺田省帰、小町谷純らが先代板谷宮吉を事業主体にかつぎ出そうとするが宮吉は政治のヒモをきらう。そのうちに市民の世論も二つに割れたが、大正三年三月とうとう区会にこの工事計画の変更案、つまり政友会内閣調査による修正案が賛同され、寺田、篠田、小町谷、磯野進、寿原重太郎ら十七人の賛成に対して田中武左エ門、京坂与三太郎、奥村数次郎、米谷秀司ら反対はわずか四人、そこで延期派で中間どころの藤山要吉、山田辰之進、井尻静蔵、奥山富作、中谷宇吉、河野正治、岡崎らをひきいれて血みどろの戦いとなる。後者の民政党系は海運、倉庫業者が多く、海陸物産派とよばれ稲穂グループは政友会の純然たる商人が主流であった。反対派のいうには『運河をつくると倉庫やハシケ業者が食えん。工費や貨物集散上からいって運河は向かない』で、政友会商人派の多数に対抗するため物産派は使っている港湾労働者を動員しだした。ミナトからはじまった小樽の初期の労働運動指導者に民政系出身が多いのはこのためだが、この問題はつまり埋築地面積の利害の争いで、バックに道庁や政府、代議士がついていた。
結局、政友会が速攻をかけ、区長渡辺兵四郎が討論終了として『職権をもちまして採決いたします』で生まれたのが色内町の運河。このとき以来、小樽の政友、民政の対立はすさまじく、党がちがえばあいさつもしない。結婚もさせないといった鉄則ができてしまった。政争はこのほか笠井真一道庁長官が築港用地跡を小樽ドックに貸し下げる約束したが、民政系の後任長官中川健蔵が取り消した事件、南方漁場不信対策で生まれたニシン合同問題の賛否両論などケンカのタネはつきなかった。小樽の選挙にはいまなおその余燼(じん)がくすぶるようである。ただ一月の衆院選における道議高橋源次郎の去就などはようやく先輩の亡霊から脱却したサンプル。
商権よう護からはじまった小樽政界では前出のほか初期の代議士に高野源之助、また明治年代の道議に渡部、小町谷、中谷、山田、篠田らが当選している。インテリ派は弁護士が代表し、この小町谷や山田がそうだし、柔道三段の夏堀悌二郎や秋山常吉、板谷吉次郎ら後半は民政系が輩出している。山田の息子の義夫は樽中出身の弁護士で、先輩の帝銀事件平沢貞通の弁護人を買って出たが早死にしてしまった。秋山は札幌の弁護士村田不二三と古今道会中一、二を争う名議長で、昭和のはじめ沢田牛匿長官と四つに組んだ論戦は著名。政友系の代議士ではのちに北海製紙の森正則や板谷順助が出現、民政山本厚三と小樽を二分する。板谷は初代宮吉の娘ムコで戦後、自由党道支部長もやり初代道開発審議会長をさいごに死んだ。
いまも小樽の興亡そのままに名邸がのこっている。稲穂小学校前の藤山邸は教会に、その大漁場のなごりは留萌線の藤山駅。稲穂町犬上慶五郎邸も主がかわり、公園入り口渡辺邸、富岡町の金子元三郎の白壁、礎石だけが残っている住吉神社トナリの丘の上、英国ふう洋館・井尻邸。小樽商船隊の栄華儚(はか)なくいま夏草。
カットは阿部貞夫
さしえは伊東将夫
~北海道人国記 小樽⑧ 奥田二郎
北海タイムス 昭和42年8月3日(木曜日)より
~2017.3.2~
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