第五話 五男九女とその父

2017年02月18日

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 「父は年中多忙な人であった。怒った顔は見たこともない。」

 北海土産の商標(ブランド)で、鮭、ニシンの燻製、数の子の樽づめ、金B布河口から移出まで、海産物の取り扱いを柱に、輸入品としてウヰスキー、葉巻煙草から、コーヒー、紅茶、日本酒まで、当時は目新しい缶詰類を取扱っていた食料品店を経営していました。自慢話は「俺は大学は出ていないけれど、大学を卒業した兄達には、民法でも商法でも負けんぞ」とか、お隣の安田銀行には毎日訪問し、「俺は安田銀行の監査役である」と高言していました。仕事の関係上宴会や花柳界の出入りは多い方であったが、浮ついた話には一切興味をしめさなかった様ですした。これも自慢の一つでした。

 五男九女の兄弟関係は親に代わって、一番上の姉が勉強から日常生活に至るまで、自治組織の中で権限をふるい、指導されるのです。学校は私立は駄目、歌舞音曲は商家の習い事としては向かない。それは当家のルールとして厳然として違反のできない掟として存在していました。好きな道については、芸術にしてもスポーツにしても、親が特殊な才能を認めない限りは、子供の希望は無視され、現代の子ども達には全く理解のできない世界でありました。

 しまり屋の父も年に一度お墓参りや神社の帰りには、家族全員を引き連れて日本料亭でご馳走になることがあります。本場中国のコックさんの調理と聞いていました。昭和六年頃でしたのでその異国の情緒は格別の味であった様に記憶しています。「越前の三国町から裸一貫」という父の口癖でしたが、「義理と人情とフンドシ」についても両親は口癖で、色々な事はあってもこれを失ったら人間はオシマイだよ、ときつく言い渡されていました。その時には六歳の子供には理解が困難であったような気がします。

 社会にはそれなりに貢献した親類のおじいさんの胸像が市役所の庭に今でも飾られたり、又、忠魂碑には名誉市民として功績足跡をとどめている方々には大きなバックボーンとしての〈郷土への貢献〉を胸に秘めていたのでした。

 余談でございますが、私の父は同郷の後輩たちの面倒見も良く、従業員は同郷人が殆んどの様です。又父の書類整理は刻明な記帳で不始末の社員の借用證書には苦労多く心をうたれたものでした。やはり男として、一旗上げ故郷に錦を飾りたいと思い、十六歳の少年が北前船に揺られ、夢をいだいて渡道したことと思いますが、母親は渡道後一度も生まれ故郷に帰らなかったのですが、それは二度と故郷を見たくないと云う悲しい物語が、存在していたのです。

 道楽とか趣味とかのない不器用な父にも只一つのどなたにも知られぬ、油絵の趣味をもっていたことを、最近金丸真衛氏や国松さん、大月さん、小川先生(協会院長)のことなど、交際(おつきあい)のことなど古い想い出話の中に発見いたしました。古い明治の男には、自分の胸の中にだけおさめて、大事に育ててゆきたい大切な夢があります。それを男の心情としてゐる、自慢があった様でした。

~小樽昭和物語 1931~37

ノスタルジアの里―小樽

2004年3月

著者 藤本 真吾

 

 

 

IMG_3188藤本さんのお店は

IMG_3192第一大通りに面した

IMG_3189根室銀行→安田銀行…→富士メガネ隣の

IMG_3190この場所にあったようです

IMG_3185藤本商店(左手手前)

安田銀行

大国屋

吉田ラシャ(右手前)

 

村林下駄屋

堀井時計店

Xカフェ

サッポロビアホール