芸苑
2021年03月30日
モダンガールで有名
岡田嘉子の女優になる前
『小樽の花園町が私の故郷。北海道と縁のあるものは、すべて身内のようになつかしく思えます云々』
テレビタレント水ノ江滝子はサッポロビールのPRを右の様につとめている。
昭和七、八年ごろ、この水ノ江ターキーの男装の舞台姿と『涙の渡り鳥』を歌っ一世を風びした歌手小林千代子がともに小樽出身だというので小樽人はどこへ行っても鼻高々だった。これに霧島昇と組んだ初代ミス・コロムビアの松原操の歌声が加わって、小樽は芸能人の宝庫といわれたものだ。松原は生まれただけですぐ東京へうつったが伸江と改名した小林は公園したの庁立高女出身のハリきゅう師の娘。水ノ江も高女中退のはず。
戦後、‶高原列車はゆく〟で当てた岡本敦郎の父は小樽市立高女の校長さん、敗戦後の荒廃を‶リンゴの歌〟でやわらげた作曲家万城目正はひところ小樽の日活館でジンタの指揮をとっていたという。文豪佐藤春夫の弟夏樹がその付近の喫茶店をやっていて、万城目の姉がそこへとついだそうだ。
亡くなったシナリオライターの古手八田尚之は丸井とこの八田病院の弟であったし、大船から新人監督でおどり出た小林正樹(早大卒)は樽中の軟式庭球選手で弟と組んで全道中学校大会の覇者となっている。樽中校庭の山の裏にあったコートで汗まみれの練習の姿からいまの彼など想像もできなかった。
戦後のラジオ娯楽番組み‶二十の扉〟のレギュラーから玉のこし(輿)に乗った柴田早苗もこの地の生まれ。もっと古いところではカラフト国境を突破して‶赤い恋〟の逃避行とさわがれた岡田嘉子が女優になるまえに小樽一のモダンガールとして人々をビックリさせている。父の岡田耕平が北海日報の主筆として東京から招かれたときに一緒にきたのだが、日報は石川啄木が籍をおいたそれではなく、大正期にはいってから、道議の山之内信弥がボスの寺田省帰をスポンサーとしてはじめた政友会の機関紙である。これはすぐ経営難になっているから岡田の父もそうそうに引きあげたものだろう。
石原慎太郎、裕次郎兄弟も山下汽船の小樽支店長だった石原貢のもとで稲穂小学校にかよったものだという。
文学座の幹部俳優中村伸郎はのちに小松製作所の所長をやった父中村税の小樽時代の子(※)。東京へ行ってから伸郎は開成中学にかよったが、先輩に左翼作家の村山知義や町村金吾(道知事)がいて、町村は硬派のチャンピオンであった。村山にいわせると、ある日反戦論を一席やったら、町村に一発ポカッとやられたそうだ。中村の演劇へのめざめも村山との縁からであろうが、いま小松製作所は町村の岳父河合良成の天下、おもしろい回りあわせである。
芸術祭奨励賞(昭35)をもらった民芸の鶴丸勝彦も小樽産。アメリカのテレビ映画にちょこちょこ顔を出すナンシー梅木は小樽の鉄工所の娘で、兄が文学青年だった。
現役ではNHK専属指揮者の久岡幸一郎(東洋音楽学校出身)たテイチクの作詩家大高ひさおもこの地の生まれ。
地元の演劇では昭和八年ころまで青年劇場というのがあって本道演劇界の先端をきっていたが、いつか消え、戦争中は小樽新劇研究会が‶翼賛芸術〟をくりひろげていた。音楽では戦後、製罐管弦楽団が竹越定吉主宰で編成されたり、酒井武雄の酒井合唱団、女学校の歌の先生中川則夫の小樽合唱団や吹奏楽団、上元芳男や工藤健次の小樽文化協会、あるいは板本吉典が代表の小樽勤労者音楽協議会などが目につくが歴史の古いのは酒井正忠のプレクトラム・サェティ。最近の美術界では宮崎信吉、三上大華、書道の高頭珪碽、蛯名巌、宇野静山。洋舞では杉香保子、鍋山美恵子、直江博子。邦舞は若柳吉多賀、花柳寿喜美、花柳多喜代、琵琶村上虎水。尺八川村竹風。民謡浅井幸。謡曲藤沢角市。詩吟中川?岳。長唄杵屋己津政。小唄春日とよ常、春日とよ国、春日とよ芳、春日常弥らが代表格。
カット 阿部貞夫
さしえ 伊東将夫
~北海道人国記 小樽編 奥田二郎
(北海タイムス 昭和42年9月11日(月))より
※ どちらが本当なのだろう?
そば会席 小笠原
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