紀元二千六百年(昭和15年)と小樽 8

2016年09月18日

 1年間をふり返ってみる12月を迎えたが、いまなぜか、この秋に観た「白い炎の女」という映画(英国・1987年製作)が目に浮かんでくる。

 ドラマは1940年、ロンドンがナチの爆撃をうけていた頃、アメリカ植民地で展開する灼熱のラブミステリーで、実在したダイアナという美ぼうの女性の物語である。これを演じたグレタスカッチという女優もいい。

 完ぺきともみえるメークやゴージャスなドレスの着こなしに接し、私はあのころの日本は、小樽ではと対比しながら、東西の差異に改めておどろいた。

 1940年(昭和15年)といえば、日本は紀元二千六百年を迎えた戦中(日中戦争)であった。

 いま50歳近くの女性の名前で紀子(のりこ)という人に「あなたは昭和15年生まれでしょう」というと当るのも、その記念につけられたからである。

 小樽でもこの紀元二千六百年記念式典を2月11日の紀元節「建国記念の日」に行なわれた。

 会場の小樽公園グランドには、冬にもかかわらず2万人が参加し、式典後ブラスバンドを先頭に小旗をふりながら市中行進をした。

 その頃の服飾りなどはどうであったのか。この年に商工農林省は、ぜいたく品の製造販売制限規則を公布。「ぜいたくは敵だ」という看板やポスターが小樽でも多く見られた。

 更に政府は、国防色(カーキ色)の国民服の着用を法制化し、「一億一心」「新体制」ということばを打出した。

 そして翌年に太平洋戦争に突入していくが、防空ズキン、モンペという非常時服装になり、パーマネントも禁止となった。 小樽は全道にさきがけて、カフェー、飲食、料理店、タクシーの営業を今まで11時までだったものを10時までとすることを道庁保安課と歩調し、9月から実施した。

 また、わが小樽からぜいたくを追い払いましょうと、愛国婦人会、国防婦人会や婦人連合会の幹部130余名が、繁華街で見張り番を展開した。

 午前8時から午後6時まで、当時の名称でいうと、手宮十字街、大黒屋、花園第1、第2大通り、妙見川、交番屋、小樽無尽、北海屋ホテル、入舟交番、奥沢人口、高島、小樽駅前の12ヶ所で、5人1組の5交代で自しゅくカードを手渡し注意し合ったものである。 

 「白い炎の女」にみせた、同時期のあちらではファッションの究極のぜいたくと妖しさ…とても地球は一つなどという時代ではなかった。 

 そんな中でも、邦画界においては、当時の李香蘭(国会議員の山口淑子)、高峰三枝子、原節子、桑野通子、札幌出身の黒田記代を光っていたと思う。

 この年には、花園町の松竹座、(現在の松竹ホール)で「民族の祭典」というベルリンオリンピックの記録映画が上映され、小、中学校、女学校の団体観覧があり、その中に私もいたが、今でもその記憶は鮮明である。

 米も砂糖も配給キップ制になった同年の小樽は、人口16万4283人。高島町と朝里村が市に合併になった年。

 こんな時期に、いま思うと、笑話に見えるかもしれないが内務省はカタカナや不敬にあたる人の名前の改名をうながす通達を出した。

 歌手のディックミネは三根耕一に。万歳のリーガル千太、万吉は柳家。俳優の藤原釜足は藤原鶏太になった。

 当時は子役だった中村メイも、メイは英語(5月)だからその下に子をつけられ中村メイ子になったという。

 年が明けると、あれから50年になる。その反動かの様ようにいまはカタカナ文化が賑わっている。

 「白い炎の女」で若き日をみせたモデルのダイアナという女性は一昨年まで生き、この映画が完成の日にこの世を去った。

 そしていま、外は昔と変わることなく白い炎ならぬ、白い粉雪が降り続いている。img_0827A

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~NEW HISTORY PLAZA ⑧

小樽市史軟解 第1巻 岩坂 桂二

月刊ラブおたる 平成元年5~3年10月号連載より