料理は道理を料(はか)るもの

2017年01月13日

 日本料理の革新を叫んで星岡を始めたころ、わたしが板場へ降りて仕事をしだすと、料理材料のゴミが三分の一しか出ないと、ある料理人からいわれた。料理材料の不用分をわたしが処理すると、捨てるところが減少してしまうからである。わたしは今でもそれを誇りにしてよいと思っている。あるとき、板場へ降りて行ってみると、風呂吹きだいこんを作るというので、勇敢にだいこんの皮をむいている。試みにその皮をどうするかと聞くと「捨てまんね」といってすましている。皮だから捨ててしまえばそれまでで、糠味噌へ入れれば漬けものになるし、その他、工夫次第でなんにでも重宝に使える。

 こんなことを廃物利用とひとは呼んでいるが、だいこんの皮の部分というものは、元来、廃物ではない。廃物だというのは、料理知らずのたわごとである。皮の部分にこそ、だいこんの特別な味もあり栄養もある。だから、もともと、皮をむいて料理すべきものではない。皮をむく場合は、お客料理としての体裁か、また、だいこんが古くて皮が無価値になっている場合にかぎるのである。そこのところがわからない料理人は、なんでも皮をむいてしまう。わたしは鎌倉でだいこんを食う場合は、いつも畑から抜きたてのものを用いる。もちろん、そういう新鮮なだいこんは、皮などもったいなくてむけるものではない。

 その道理のわからない無教養な料理人は、鎌倉で抜きたてのだいこんをあてがっても、皮をむいてしまう。食う相手がわたしである場合には、そんなもったいないことはしてはいけないといって、いつも教えてやるのだがもちろん、相手にもよる。半可通のお客が来ていれば、そのお客に合わせて皮をむくのも、ときには必要となろう。だが、だいこんの皮は、貴重なものであるということを、初めから呑み込んでいるのでなければ、本当の料理人とはいえない。料理の憲法を学ばない輩は困ったものだ。単にだいこんにかぎらない。たとえば、わさびの軸であるあれをみな捨てているが、わさびの軸の色は青々としてい清々しく、シャキシャキして歯当りの感触もよし、味もちょっと辛くて、使いようによっては、皮肉にもまたよいものである。箸洗いなどに配してもシャキシャキして活きる。他の何物をもってしても、わさびの軸に優るものはざらにない。

 わたしがこういう話をしだすと、至らない若者の中には、ケチでいうかのように考えるものもあるが、ケチであるかないか他のことを見ればわかる。わたしがそうせずにおられないのは、料理し得るものを料理しないということは、料理人として冥利がつき、権威にかかわると思うからだ。 

 料理材料というものが何万何千かあるか知らないが、一つとして、それ独自の持ち味を有しないものはない。どんなものにも、他のものでは代用し得ない持ち味があるものだ。天が作り地が作った自然の力がものをいっているからである。料理が材料の持ち味を活かすことにあるとすれば、利用し得るもの総てを利用してこそ、初めて料理ーすなわち、「ものの理(ことわり)を料(はか)る」という名に価し、料理人たるの資格があると言い得る。それこそ料理の心というものである。(昭和10年)

魯山人著作集 魯山人美味論語より

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