小樽に於ける商人の出現と各種商業の変遷(十三)

2018年04月19日

三 海産商の盛況と鰊不漁の影響

一『その頃の仲買人は数の子なら数の子一本で一年中楽に生活したもので、それほど物が豊富であったから、一種類だけ扱って居れば宜しかった。此の人は数の子の仲買人、誰れと誰れは魚肥、ある人は海藻昆布、或る者は鮮魚類、或る者は支那貿易の貝柱、鮫鰭といった具合であった。仲買人が三十人もいたが殆んど一種類の銘柄を専門に扱っていた。

 その頃の仲買口銭は、同じ仲買い人でも大体鰊粕、海藻昆布、合物(身欠、数の子、棒鱈、鮭鱒)の三種類に分れて口銭の率も決っていた。中でも合物の仲買人が一番勢力があったという事は、手数料が百石四千円位の取引でもシャンシャンと手打が出来れば、二十五円、高いときで一万二千円位だから陸十円の手数料が取引毎に入って来る景気のよさで、当時米が一俵十円までで、その頃の六十円といえば大金であったから、魚肥や昆布の仲買人はみんなこれを羨しがった。尤も此の方は魚肥で百石千二百円程度のものだったからその頃の手数料は僅か六円位であったが、鰊粕など一度の出来高が大きかったから相当の金額に成ったのだ。』