港・今昔物語【8】

2020年05月26日

〝ゴモ〟の大争議

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 大正十四年八月、小樽港では沖仲仕を中心として境一雄をリーダーとする小樽総労働組合が結成された。有名な昭和二年六月の港湾争議の原動力となった組合である。ストライキはすでにこれより前、大正七年七月に賃金五割増額を要求して千人の港湾労働者によって行なわれ、このときは労働者の方が勝っている。 

 この昭和二年のゼネストは浜名甚五郎が経営する艀業の常夫三十三人が一人十円ずつのベ・アをようきゅうしたことから始まる。侠客鈴木吉五郎の子分だった甚五郎は飼い犬が主人の手を噛んだとして激怒した。そんな要求を蹴っ飛ばして木刀を振り回す暴れかたをみせたのである。

 六月十八日、陸方仲仕二四〇、自由労働者二三〇、翌一九日には船人夫三二〇、手宮のカネト石炭部、三井、大倉などの石炭現場従業員二五〇、倉庫人夫一〇〇、手宮駅構内作業人夫八〇、自由労働者二八〇などがこの闘争に参加して、二十日には遂に二千人、関連事業体七十三に普及した。このころ拓銀小樽支店に勤務中だった小林多喜二は暇をみつけてアジビラをかきまくったものである。

 争議団本部は十九カ所も移動しながら初めの賃上げ要求から小学校の授業料金廃、家賃三割値下げなど、数々の要求項目をあげて気勢をあげ、甚五郎の方にも助っ人が集まるやら警官がサーベルをならして駆けつけるやらで、政友と民政に対立するおたる的政治色を背景としてストは大変な方向に発展した。争議側は手宮の錦交番に仲間二人を検束されてこれを奪い返そうと投石するなど、山谷か釜カ崎の騒ぎにも似た攻防戦までくりひろげた。だがこうした暴動的反抗は一般市民の同情を失い争議側の旗色がだんだん悪くなった。

 仲介の労をとったのは市議会議長の秋山常吉や森正則(現久則の父)大西慎二の三人。八回の交渉の末、七月六日に和解、正式調印した。このときの争議で各事業主の損害は一日十五万円から二十万円だったといわれている。

 今日の港湾関係では全港湾とのベ・ア交渉は年中行事のように春と年末に行なわれる。かつての闘志蔦谷喜代治はいまや市議会副議長のポストにおさまって牙をぬかれた虎と化したなどといわれている。港湾運送事業者もなになに組の親分といったコワい人はおらず機械化、近代化に向かって「改正事業法」に従順たるべく合理化を急いでいる。木刀をふりまわし、目つぶし用の銅貨入り袋をうならせる甚五郎タイプは今日通用しない。浜の荷役も立派な企業なのだ。

 昔は港湾作業の労務者を「風太郎」と呼び室蘭では「ドンゴロシ」(麻袋)小樽では「ゴモ」といった。日野葦平原作のものに沖仲仕がでてくるが、たいてい甚五郎タイプ、のちに道議も勤めた中谷宇吉も運送業者だが彼は国際的な視野の広い国士でもあった。

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~2016.8.20