大国屋
2016年10月13日
嘉永六年ー。
この年はアメリカの水師提督ペリーが黒船を率いて浦賀へやってきて開国を迫り徳川三百年鎖国の夢を醒ました。この年に越中は砺波(となみ)郡井波町に京坂屋善九郎が「京善屋」の屋号で古着商を始めた。これが現大国屋デパートの起源である。
ご維新となって、明治三年屋号を「紅屋」に改め質屋を兼業した。この年平民に姓が許され初代は金栄を名のった。翌年断髪令が発布さるるや真先にちょんまげをばっさりきり落しとりわけ封建制の強い田舎の人々をビックリ驚天させた。それほど初代は進歩性の強い人だった。
現在の大国屋の屋号になったのは明治十年。古着商から純然たる呉服商になった。屋号の由来は初代が京都へ仕入れに上り京都で大国さんを染めた暖簾(のれん)を手に入れたからであるという。
開拓が進んだ新天地北海道、特に明治十三年鉄道がついて北海道中央部の門戸となった小樽は北陸との物資交流が頻ぱんとなり北陸各県人が陸続と移住してきた。日露役に勝って南樺太は日本領となりオタルはその基地となって商業都市としてメキメキと発展した。
このような状況から初代の養子二代目金栄庄太郎は道内を具に視察して小樽に着眼、明治四十年現在のところに小樽支店を開設、これが今日の大国屋デパートの基礎となった。
最近、余市から明治四十一年の大国屋呉服店のチラシビラが発見された。これは一寸紹介の価値がある。
冒頭に
だいこくやうりだす種は秋の福
の句に始まり、一周年記念の口上と
「来る二三四日夏衣大売出し当日粗品呈上」とあり、特に店則五則が打出してあり興味深い、曰く
第一則正札つきにてかけ引きなし総て実直親切に御会計ひ致すべき事
第二則小うりもおろしうりも同じ値段にて御客様の御利益を計る事
第三則臨時バーゲンデーもせず広告もせず景品も出さず余興もなし
誠に無粋なれど常に値段安売の一方につとめ申すべき事
第四則本店は各産地に深きなじみのあることなれば時々刻々機先に
嶄新珍種を輸入して御得意様へ提供する事
第五則本道くじら尺の元祖大国屋はくじら尺にかぎる事
明治正法の意気が窺えて面白い、バーゲンデーなど用語を当時何人が解したであろうか。大国屋はくじら尺の元祖を誇っている。当時内地からの移住者は故郷でくじら尺になれていたにも不拘当地では曲尺(かねじゃく)で布地を売っていた店ばかりだったからである。数年前僕の家の古い箪笥から「曲ヱ大国屋鯨尺の魁」と染め抜いた風呂敷を発見し大国屋さんへ逆に贈呈した。
大正七年には瓦ぶき木造総二階に改築店は畳敷き番頭は座って客と接し客は椅子に腰を下して奥へ向っていた。
大国屋の店員は仁七、義七、礼七などと下に七のつく呼名を持っていた。僕の家へは友七さんという福々しい丸い顔のいつもニコニコした番頭さんが、縞の着物に黒の前掛をキチンとつけて大きい風呂敷に反物類を包み背中にしょってよくやってきた。先づ風呂敷を開いて丸い棒に巻いてある反物を器用な手付きで開いて次々とひろげる。、母はよく
「そんなに買わないんだからもうよろしいよ」と云ってもニコニコしながら
「どうぞご覧になるだけで結構ですから」とついに畳一杯にひろげる、母も女だからそうは云ってみたものの次々といい柄が出てくると引きつけられてどれか一つをつい買ってしまう。
「友七さんはほんとに商い上手だよ」と母は笑いながら感心していた。
昭和九年三代目(小樽高商から一橋大卒)は時勢を察して百貨店に転身、鉄筋コンクリート四階建に改築、二十四年本社を富山県から小樽に移し、二十八年と三十一年二回に亘り増築工事を完成した。
~おたるむかしむかし 下巻 月刊おたる
越崎 宗一
昭和39年7月創刊号~51年12月号 連載より
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そば会席 小笠原
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