三井銀行支店
2023年07月01日
北海道が初めて銀行業に手を染めたのは三井組である。開拓使は本道開発のために道路、鉱山、交通事業に投ずる資金を起債することとなり明治五年一月勅裁を仰いで二百五十万円の開拓使は兌換証券を発行した。それは十円、五円、一円、五十銭、二十銭、十銭の六種で券面には為替座三井組とあって三井組に取り扱わせた。
明治六年に三井組出張店が凾館札幌に設けられ、これが九年に三井銀行出張店となった。凾館は内澗町一丁目一番地(現在の末広町)、札幌は檜山通十二番地(現在の南三条)に開設された。
小樽出張店は明治十三年四月土場町三五三番地に開かれたが、当時この方面は小樽の中心街で郡役所を始め警察分署などの官衙や廻船、海産問屋が櫛比した信香町や花街こんたん町に続き、その繁華は本道西海岸随一といわれた。勝納の前濱には北陸関西方面から海産物積み取りのために北前と称せられた和船が錨を下して輻輳していた。三井銀行が出張所を開いて為替業務を取り扱うようになって大変喜ばれた。
この年の秋には待望の札樽間鉄道が開通した。
ところが好事魔多しで十四年五月こんたん町大火で十一ヶ町戸数五百八十余が焼失し、この火事を一転機として諸官公役所の多くが現南小樽方面に移り、また貸座敷や花柳街が住江地区に移動した。罹災後問屋街は入船川沿いに並びに港町、堺町、色内町への道路筋に発展してゆき、類焼した三井銀行は港町六十六番地(山〆木村の北隣)に移った。これは明治十六年の小樽高島両郡港湾絵図に載っている。
さらに二十二年の後志国盛業図録によると色内町十五番地に移って三井物産と並んでおり二十六年の小樽港実地明細絵図には小樽支店(十五年八月支店に昇格)と出ている。
小樽港を眼下に眺める商大通り松山逍遥道路の分かれ道にある日蓮宗妙竜寺境内に「真光謙八墓」と彫られた自然石の墓があるが、これは明治十四年五月、年若くして三井銀行小樽支店勤務を命ぜられ東京から赴任してきた勤勉な銀行員直光君が在任二年で二十一才の若さで病歿し、これを惜しむ碑文が裏面に刻まれている。春風秋雨幾星霜、小樽の変遷を静かに見守るこの墓碑は塑北の地で相扶け乍ら業務の発展に活躍した同行行員同士の友情の厚さを物語る。
三十七年五月八日、遼陽陥落祝賀提灯行列の夜取引所附近から出火し強風にあおられて小樽の中心街三千余戸を一瞬にして灰燼に帰し二年前に新築したばかりの小樽支店も類焼したが幸い重要書類は殆んど搬出したので翌日から営業を継続できたということである。
この大火の前後は日露戦後の影響をうけて金融界も多忙を極め、殊に頻発した浦塩艦隊来襲の報道は遂に銀行取付騒ぎにまで発展したが三井銀行支店長の気転で「露艦来襲の報は誤電の由ただいま本店より入電あった」と入口に貼り出して各銀行の前に押寄せた預金者を緩和したという話が残っている。
日露戦後は日本の大勝に帰し南樺太の領有という小樽港発展に好条件をもたらし小樽の発展も大いに期待せられ、三十八年三井銀行支店も大虎加藤忠五郎の手によって色内街に堂々と新装の姿を見せ、これは昭和二年現在の店舗が新築せらるるまで続いた。
爾来小樽は樺太の中継港として発展し、さらに沿海州、朝鮮、満州、支那方面との貿易も盛んになり、大正時代に入って第一次欧洲大戦以来雑穀澱粉の輸出旺盛を極め、本道産物資の中心市場として有名商社の支店出張所が次々と設けられ色内十字街は北海道のロンバードストリートウォール街と呼ばれた。特に三井物産の吋材、澱粉、青豌豆類輸出については三井銀行支店の寄与するところが多かった。
第二次大戦中一銀と合併して帝国銀行となったが二十三年分離して再び旧名に復した。
~おたるむかしむかし 下巻 越崎 宗一
月刊おたる 昭和39年7月創刊号~51年12月号連載より
加藤忠五郎の手によって建てられた三井銀行小樽支店
三井物産会社小樽支店
写真は東宮殿下行幸記念北海道写真帖
小樽関係抜粋 明治44年発行より
旧三井銀行
旧三井物産
~2017.10.2
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