しかるに
2016年07月05日
しかるに明治三十七年五月、日露戦役において遼陽陥落(注三)の大祝賀会あり、その夜大提灯(ちょうちん)行列了った(おわった)後、今の電話交換局前の元の取引所あたりより出火し、おりから暴風でたちまち四方に広がり第一火防線より以北、石山まで一軒も残らず焼け払いわずかに残りしものは、石造りの最も完全したるもの点々見るのみ。而して海岸あたりでは小樽倉庫、山七倉庫とかいう石倉のみ残りたり。その時の焼失戸数、二千三百余戸なり。
当時の状況を稿載せば(すれば)、第一消防組も力つきて焼け放題となり風は南寄り北へ吹き付け彼処是処(そこかしこ)より飛火して燃えあがり市民は火の手めがけて手伝いに出かけしが、界隈一面火の海となり手伝人などはわが家に帰ったときすでに焼失後であったという惨(みじめ)なことに遭遇したるものはなはだ多かった。ことに手宮辺りの如きは男たるべきもの手伝いに出かけ家には女小供(おんなこども)のみなりしに障子や畳に火のついたまま吹き飛んでくるので、女や小供が屋根に上がり防火に一生懸命であった。そこへようやく家主や男共(おとこども)が戻ってきて妻君にケンツキ喰(く)らったという騒ぎであったが、焼け止まりは今の手宮停車場が三井の枕木置場で山の如く積み上げてあった、そこで止まったがその枕木に火が付き消火に大変骨が折れ、何千という焼残り枕木ができて、後で一本十銭位に売り払いたり。その向側は今の渋沢倉庫で止まったのである。その時の焼け戸数によるも人家の密度を想像するに難(か)たからず。
~p23~p25
より
(注三~p23・p29・p57・p123 遼陽陥落の祝賀行列は同年九月五日であり、大火のあった五月八日の提灯行列は別の名目(小樽新聞社は鳳凰城占領の号外を散布)で海陸の勝利を祝するために行われたもののようです(『稲垣益穂日誌』参照)。したがって記述は混同しているように思われます。
『確か、ほとんどの記事は、遼陽陥落の祝賀行列と書いているはずです。2015年8月2日に載せた〈大火の跡~小樽のアルバム 北海道新聞社編〉もそうでした。』
『小樽倉庫も大家倉庫も渋沢倉庫(今のゴールドストーン)も、この火災に遭遇していたんだ。』
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