手宮風土記
2020年05月26日
ー手宮ー
手宮はわかりよくいふと、石山以北の總稱で、南は淨應寺坂下の辺から能島の小丘を圣て郵船の社宅まで一直線に見て、それから東の浜手に密集した戸数八、九百程の聚落がそれであった。
道路は、浜町通、手宮町通、裏町通と、縱に塩谷街道、八間道路、祝津道路の縱横三本道路があっただけで、餘の道は總べて指導になって居りいづれも袋小路が多かった。この道路筋に家が建て混んでゐて繁昌してゐたからこれをせつめいすれば自然てみやの輪郭もおのづから鮮明するであらふ。
北浜町通……現在の運河のところが右近倉庫の前まで海岸で✕(ひきちがい)広海、郵船、広谷、遠藤など倉庫が建ってゐて現在とさう変ってゐない。
ただ郵船の澗の北方石倉のところに艀請負の浜名甚五郎の住宅があったのが変ってゐるくらゐのものであらふ。
澗の左手に十四間位ながやがあってこれは𠆢甚浜名甚五郎の番屋で、たよって来たものをひと晩ふた晩と泊めてやるところになってゐた。
さうしたわたり者は本宅の方にも相当泊めてゐた。
鳥井小樽警察署長が
「小樽はいいところだよ、末広と𠆢甚があるからな」と言ったことがある。
「大将――」と声をかけただけで
「ウン。何しに来た」
「実はこれこれですから助けてください」と、話をする
「ウン。よし仇を取ってやる」
と言ってよく面倒を見たので𠆢甚の大親分と尊敬されて巾を利かしてゐた。
そんなわけで鳥井署長も犯罪の起ったとき便宜を得たからその述懐をしたのだらふ。これは塩野其水翁がさう言ってゐた。
この浜町は、明治初年に南北浜町一帯を林有造氏が出願して埋立を行ひ、南の西谷回漕店の前と郵船の前に船入澗を作ったのであるが、その埋立以前は手宮町通が波打際になってゐた。
そして手宮停車場裏の石山が波打際まで突出て居って、その鼻を石崎と呼んでいた。
石崎と言へば、能島の裏山も現在ではけづり取られてしまってないが以前は裡町通りまで突き出てゐた。
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手宮町通……この通は、手宮の聚落では運送店が軒を並べて最も繁華な街であった。
郵船会社も現在の位置二二階建の粗末な建物で、道を跨いで二三棟これも粗末な倉庫があった。
傳聞するところによると、この邊は、明治二十年頃まで三菱の地所で、三菱の船舶事務所もここにあった。
その裏山は砂山で、裡町を跨ぐと谷内のひどい沼?地であったのを埋めて家を建てたといふことである。後年三菱と共同運輸会社とが大競争した揚句、合併して郵船会社となり現在になったと言はれてゐる。
郵船会社の北隣に、郵便局と小間物屋を兼ねた𠆢三梅屋村住三右ェ門といふ人の店があって繁昌してゐた。
一体この邊は昔から久二布施茂左衛門、□一(かくぼう)奥材伊兵衛といふ大きな鰊取の海産干場でその大部分を占めてゐた。
その久二布施は現井上組のところに、奥村は塩谷街道筋の鉄道踏切の處にその居宅構えてゐた。
停車場は開拓使が主として石炭輸送のために建設したところから一般乗客の乗降場は建物の片隅に假設してあって乗車に際しても
「札幌までお願ひします」と頼まなければならなかった。
竟り「乗せてやる」といった形でこれは乗車ばかりでなく石炭買ふにも願ひ出でるといふ訳でひどく非大衆的なものであった。
その頃は移住民が非常に沢山やって来た。ところがその取扱であるが汽船でも、停車場でもこれ等移民をまるで荷物扱にした。
南浜町に乗降場があるのに艀で手宮に運び、ここから上陸させて貨車に詰め込むやうにして山方面に輸送した。
なかには船酔ひのためヘトヘトになった者もあってそのために命落したものもあった。
翁も三百噸位の汽船に鮨詰めにされてまるで荷物同様の扱いを受け非常に難儀して小樽に上った。
…
より
『手宮発達の懐古』の前に書かれたのが、『手宮風土記』のようです。
おたる案内人テキストブックより
~2016.6.23
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