渡辺翁彰徳碑

2020年04月29日

IMG_5696=所在・花園公園入口=

 渡辺翁彰徳の碑、小樽公園の入り口にびょうぶのように構えているこの碑は、高さ3.4メートル、幅1.4メートル。渡辺兵四郎翁は商都小樽が全盛をきわめた明治、大正から昭和の初期にわたつて土地を代表した名望家だつた。弘化3年秋田県能代に生まれ万延元年エゾ地と呼ばれていた松前に渡り小樽漁場の名主をかねていた豪商山田吉兵衛の店員になり明治10年27才の若さで独立して小樽に根をおろし、商業とニシン漁場を経営して巨財を築き、政界でも活躍した人である。

 38才で漁業会頭取に選ばれてからは商業会議所会頭初の区会議長にあげられ、明治37年には道会議長から代議士になり、同44年小樽区長を最後に第一線を退き余生を社会事業に尽し、昭和7年5月87才で大往生した。代議士選挙には政争の激しかつた土地で、無所属(憲政派)でたち激戦の末相手候補と同点だったが、年長者として当選に決まったものの、不在者の替玉投票が1票発見され、大審院まで持ち込んで争つたが、当選無効の判決が下された。しかしその時はすでに悠々と2期目に当選していたという悲喜劇の1幕もあつた(※1)

 とにかくアイヌからサケ、マスを買うとき、1尾、2尾とかぞえる前に〝はじめ〟といつて1尾とりあげ、最後に〝おわり〟といつて1尾ただどりするという、シヤモ(内地人)勘定や、しょうちゅうをのませてごまかすことが明治の中ごろまで行われ、また漁場に米を売り込む時、1俵(60キロ)から2,3升(3‐4キロ)を着物のふところやソデの中に抜き取るという魔術師が腕を競つていた時代に巨万の富を築いた翁は商才にたけていた反面、人情に厚く、頼まれれば〝いや〟といえない男気もあり、明治天皇のご上陸記念碑を私財を投じて建てるという郷土愛の強い人でもあり、和歌、俳句を好み竹ボウキのような巨筆をふるうのを得意とした書道の達人で祝津の水道記念碑文は晩年の書。彰徳碑は大正10年6月佐藤昌介北大総長や同志藤山要吉氏ら札幌の官民有力者が集まり、仙台から石材を取り寄せて建てた。

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IMG_5695~小樽 石碑と銅像

小樽市教育研究所

昭和36年3月15日発行より

 

~2016.6.13~