原稿 小樽明治29年からの四十年誌 入船、港町方面

2020年06月02日

また共成会社の全盛時代は出入りの馬車屋が百数十人もあって、皆な立派なる馬の持主のみで例えにも大にして立派なることを共成の馬のようだと称賛したものである。年に一度の新年会には馬車屋を開陽亭へ招いて、たらふく馳走にあずかりて腰を抜かして帰宅もできず、それぞれ妻が迎いに行ってようやく連れて帰ったというほどの全盛ぶりであった。

 而してその共成と言うことについては逸話がある。沼田喜三郎という人あって米屋を始む。板谷宮吉氏もそのころコメの小売りをなしついに両名競争となるも常に沼田氏の一層白米なりとの声望あり。板谷氏すかさず上白米と名をうって売り出す。沼田氏負けじとて最上白とやる。板谷氏もまた最上の名を冠す。沼田氏これではというので鮓米(すしまい)の名を附す。板谷氏上々鮓米とす。沼田氏最上鮓と誇る。ある人いわく、その競争は共倒れの仕打ちなりとて仲裁し双方合同的会社を起さしめ共に成るという意味をもって共成会社と命名したりとのこと。実に商人腕(うで)の凄さは感ずるのほかなし。而して沼田氏は創立当時の社長、次が佐々木氏、次が、京坂氏、今は長谷川氏ならんか、沼田氏は後、開墾事業に従事し農家は一人一銭八厘で生活できるという自己実験の逸話もあり。ついに留萌線に沼田村あるのは氏の艱苦(かんく)の跡なり。京坂氏は共成に雇われ米搗(きこめつ)き監督をなせし人にて努力の結果ついに社長となり、また板谷氏の今日あるは、人並みの努力にあらざるを覚ゆ、嗚呼(ああ)宜(むべ)なる哉(かな)ならんや。

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