南郭と北郭(その一)

2016年04月29日

 戦前の小樽には廓(くるわ)が二つもあった華かりし証左であろう。

 幕府時代高島小樽は鰊の千石場所で近江商人が請負漁場を経営していた。しかし道南地方の鰊が凶漁となり和人漁師が積丹から奥地へ出稼が許されるようになると小樽の漁場は益々賑わうようになった。だが昔から神威岬を和人の女が通行すると神の怒りにふれて海難に遭うという迷信があって女人禁制の不文律となっていた江差追分の

◎忍路高島及びもないがせめて歌棄磯谷まで

◎怨みあるかよお神威様よなぜに女の足とめる

◎小樽海路にお神威なくば連れてゆきたい奥地まで

の文句は何れもこれを唄ったものだ。

 しかし幕府は奥地開発の拓殖政策からの禁を解かんとし安政三年幕史梨本弥五郎が妻子を連れてこの岬を通過し以後和人の男女が小樽方面に永住家屋出稼家屋が持てるようになり慶応元年には小樽は請負制廃せられて村並すなわち自治制が布かれ勝納川附近に旅籠屋、居酒屋、料理店などができ酌取、飯盛(めしもり)それに浜千鳥(はまちどり)などという優雅な名の商売女が出現するようになった。

 そこで開拓使は廓もまた開拓の一端と考え明治四年にここ(新地町こんたん町)を遊郭に指定し、貸座敷を免許した春先から内地船が入ってくると花柳街は活気を呈し商売も酒間のうちに行われた。貸座敷では南部屋と丸辰が双璧であった。

 

おたるむかしむかし 下巻 

越崎 宗一

月刊おたる 昭和39年7月創刊号~51年12月号連載 より