御用金ねらった小樽内騒動~⑥
2019年01月06日
遠山の金さんが小樽に着ています。文化二年(一八〇五)に、ロシアの艦隊が石狩湾に腰をすえているときいて、長崎でロシアと折衝してしていた目付遠山金四郎影普幕命で北海道へとぶ。松前藩はだらしないというので、金さんはお庭番、つまり幕府直属の密偵である。一行三人の一人は子分の近藤重蔵。冬、松前へ上陸して翌春四月余市をへてテミヤにきた。エゾ家(アイヌ)三軒あり、ヲタルナイ運上家一軒・エゾ家八軒、さらにアリホロ、ノブカ、カツナイ、ハリウスと歩いて報告書をつくっている。テレビの金さんが民衆の中にまぎれこむのはこの密偵の性格の拡大解釈であろう。
小樽が西エゾ第一の都府をほこる三百十四戸、千四百十三人になったのは金さんのきた六十年もあとのことで、慶応のはじめに「村並み」に昇格しているが、その慶応三年十二月九日トツジョとして王政復古の号令が出た。鳥羽伏見戦で勝ちぬいた新政府は各方面に鎮撫総督を派遣して政府が一変したことを布告、その通達がとおくオタルナイまで達したが、江戸ではまだ彰義隊がガン張っていて人心はゆれうごく。
明けて明治元年四月、金ちゃんちがいの傷金というバクチ打ちが小樽の仲間をさそって篠路居住の浪人者二人(テレビに出るワルの用心棒がやはりいたのだ)を加えて信香の小樽内御用所をおそって御用金をうばい、困っている人間にほどこす計画をたて、いろいろ工作をめぐらした上で信香の名主宅の戸をやぶって乱入、名主を連行して役所へいった。その同勢は五百人にも達していたという。
一方、情報により警戒していた役人たちは乱入する〝反乱軍″に銃を撃ち、槍でつきまくったが結局百四、五十両をうばわれた。そこでアイヌをつかって石狩役所に救援を求めたのでニワカ義賊たちは旅費として千両箱一つ、汽船一隻をまわせとわめき、ハイジャックさながらだったが、とどのつまりは斬殺され、捕えられて鎮圧された。傷金ら首魁四人は唐丸カゴで函館におくられて引回しの上クビ切りと相成る。しかも首四つをまた小樽にはこんで勝納川略に梟首。サムライ時代の名残りである。
おなじ明治元年十月、旧幕脱走軍が箱館を占領、さらに全道を制圧すれば旧幕開拓奉行の各地吏官たちはそれに屈したかっこうになった。脱走軍は小樽内で一小隊と彰義隊の生き残り十数人が竜徳寺を本陣、正法寺を分屯とした。軍律はきびしかったが人心はきわめて不安だった。小樽内御用所在勤の宇津木頼母(たのも)以下は脱走軍の下で民政を扱うかたちになったものの、ココロは千々に乱れたろう。宇津木らは一応無害だったが、新たに任命された在勤吏官は脱走軍のテキになるので、石狩在勤になった長州藩(目の仇だ)の井上弥吉は脱走軍に捜索されてにげまわり、雪ぶかい銭函から八キロ奥のキコリ小屋にひそんで、昼夜生木を焚きつづけて暖をとり、海岸の名主が五日おきにとどけてくれる米噌で生きながらえ、数十日後にニシン買いに化けた官軍雇いの船で青森へ脱出することができたという。かくまった西谷新兵衛一家にのちに官軍の恩賞があった。
翌明治二年三月、小樽内屯集の脱走軍に引揚げの命令がきたか、酒井隊長は丙氏の乱暴をおそれて兵士に知らせず突如引率して引揚げた。それでも名主山田兵蔵が百両うばわれた。その上、榎本武揚軍の降伏を知って賊軍は各地に散り、カネ出せをやらかすものだから、小樽は一時無政府状態になり船も入らず、コメもなく市民は飢餓に瀕死した。これを新政府が救う。そんなことがあったなど何知らぬげに港小樽はまだ春だ。
見直せわが郷土史シリーズ⑦
小樽市史軟解
奥田二郎
(月刊ラブおたる39号~68号連載)より
~2016.3.31~
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