お女郎町が灰になって中心地が北へ(一)~③
2019年01月06日
いまでも信香町には遊廓の建物がボロボロになって二つ三つ見ることができる。明治のはじめの弦歌さんざめくユメのあとである。
小樽のよそからきて小樽を愛する人がいる。ここには札幌などとちがって昔の姿が方々に残っているからだという。味ワイのあるマチなのだ。が、そこに住んでいる昭和人の若者には何ともわびしい露路小路であるかもしれない。
明治三年(一八七〇)に開拓使は町名をつけた。信香町、若松町、山の上町、住ノ江町などがそれだが、〝内地人″が多くはいりこんできたのは安政二年(一八五五)の神威岬以北の移住解禁、女人往来解禁以来で、小樽の紅灯街第一号の金曇(コンタン)町にはヤクザや浮浪人、売春婦がこの一角を巣窟する始末であった。信香町から奥沢方面にかけての長さ三町、巾三間の横町がそれで、わるい魂胆をもつ当時の新人類ばかりいるから「コンタン小路」といわれたが、役人はそれをきらって「コンドン町」と呼べと各所に張紙したが、効き目はなかった。犯罪人逃亡人がおり、夜逃げした者もいた。明治七年で六百戸、二千人が小樽(高島は別)の居住人である。
最初、娼家(ゴケ家)、割烹店など十五、六軒だったが、遊郭地に指定されたのは明治四年で、それから十年にかけてが全盛期であった。というのは、勝納川口に船がどんどんくるようになり、ゴケ屋、酒楼がふえたからで、勝納川は今のように水がショボショボでなく、入口は舟がスイスイ、大雨には洪水被害が出た。明治十一年には家屋倉庫が流され、金二十七円也を水防につかっている。消防はいざの時駆けつける私設消防組が一組百人の四組(手宮ふくめ)があったが、明治十三年に公設消防ができている。
住民のたべものは明治十年で米十三万俵余、ミソ六千樽、醤油一万樽、酒四万六千樽、焼酎八千樽などが主なもので、ナベ百五十一、カマ七十一にくらべてニシン釜九十六は場所柄である。酒はよく出た。
一方、小樽港から送られる輸出物は生ニシン、ミガキはじめスジコ、白子、ニシン粕など圧倒的にサカナ関係が多く、ついでに移入では米は新潟、酒は酒田の大山酒、ミソは津軽、醤油は新潟、砂糖は黒が主で大阪経由の九州、沖縄もの、タバコは阿波(四国)、茶は宇治、ナシ、リンゴは新潟、その他呉服金物類は東京、大阪経由を主とした。
~見直せわが郷土史シリーズ③
小樽市史軟解
奥田二郎
(月刊ラブおたる39号~68号連載)より
によると金曇町は
この辺り 右側の場所でした(信香町側から)
~2016.3.14~
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