大昔、小樽湾なんかなかった。(一)~①

2019年01月06日

クマウシ   魚乾棚のあるところ(熊碓)

オコハチ   鰊群来のところ(於古発川ー色内川)

テミヤ    テンムヤ 菅藻の寄る岸

オタルナイ  砂丘の中の川。小樽の語源(アイヌ語)

 この小樽の土地にどんなオトコとオンナたちが住みついていたのか?むかし、昔、大昔ー。

 「いつ頃人類が住み着いたかはまだ、判らない。」

 昭和三十三年発行の小樽市史は正直にそういっています。しかし、アナタが歩いているそのアスファルトの下、キミんちの土地にその大昔、だれかが住み、ミスターナントカが歩いていたのは確かだ。

 今から二万年前の旧石器時代後期の遺物と思われる打製石器が昭和二十九年秋に樽岸で発見されてから、さらに小樽の周辺で無土器文化期の遺跡が次々と見つけ出されている。

 中にはヨーロッパやシベリアで見つかったものと同じ製法の中期石器文化期があるという。そのあと、ウルム氷期、というのは旧石器時代後期の頃で、この北海道が大陸と陸つづきだったという。間宮海峡や宗谷海峡がなく、日本海の水位が今より八十mも低い時代というから、想像のしようもない。小樽港なんかなかったし、現在の市街地はずっと海より遠くに位置していたことになる。

(陸つづきより氷橋の説あり)

 海峡がないからシベリアあたりからマンモスおって後期旧石器文化をもつ人類が小樽にも来ていたのだろうが、道内にマンモスの化石は夕張市やえりも町で発見されているものの、小樽からは、まだ見つからない。マンモスは更新世後期に広く生息していたから一万~十五万年前ということになる。マンモスが来た頃は、相当、寒かったが、その後、あたたかくなって、中石器文化人が来ているはずだが、これも小樽には痕跡がない。つぎに沖積世の前半(一万年近く前)になると海の水位は今より高かったという。すでに大陸では新石器文化がはじまり、弓矢と石器のつくり方を知ったニンゲンが渡来する。

 そうした文化期の年代の推定は、とくに土器によることが多いが、道内出土で一番古い土器は札幌附近で発見されているものの、これも小樽では未知だ。しかし、その分布圏内にあったのは間違いない。余市でも尖底土器が見つかっているからだ。

 

~小樽市史軟解 見直せわが郷土史シリーズ①

奥田 二郎

(月刊ラブおたる39号~68号連載)より

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~2016.3.10~