緑町第一大通り

2016年01月15日

 

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川沿いの工業地帯、遊廓への道として発展 

 小樽市街の山の手寄り一帯に広がる緑町(公的な町名は「緑」だが一般には「みどりちょう」と呼ばれることも多い)。その町域の市街中心部寄りを、山側に向かって一直線に延びるのが第一大通り。浅草通りから分岐して洗心橋に至る、長さ1・1㎞の道だ。この通りと東側、小樽公園の丘陵との間には於古発川の流れがある。さほど大きな川でなく今ではその存在感も薄いが、もともとこの一帯の町の起こりは、川との繋がりが深かった。

  明治に入って定住する人口が急増した小樽では、本州から米を玄米の状態で運び入れ、港に水揚げ後に精米して消費地に運ぶことが行なわれていた。この時代の精米はもっぱら水力によって行なわれ、小樽では於古発川や勝納川の流域にいくつもの水車小屋が並んだ。明治後期になると於古発川の水量が減ったことから、最盛期には流域に7軒ほどあったt精米所のほとんどが廃業するが、替わってさまざまな町工場の開業が相次ぐことになる。明治末期から昭和の戦前を中心に石鹸、ロウソク、紙、ガラスや、ラムネ、味噌、製麺、製粉といった食品関係など、比較的小規模な工場が操業していた。

 町工場が増える一方で、界隈の発展の契機になったのが明治34年、「新遊廓」の開業だ。それまで住ノ江にあった遊郭は29年4月の大火で焼失、それに替わって「入船町奥天狗山麓」、すなわち現在の松ヶ枝に新たな遊廓が設けられる。風紀上の理由により、市街地から遠く離された遊郭への交通路として稲穂側、入船側の双方からの道路が整備された。稲穂からのルートとなったのが現在の緑町第一大通りで、途中、於古発川に架かる橋が洗心橋と名付けられたのは、遊廓に通う男の〝心を洗いに行く″心情を映したものか、と語られる。

引き揚げ者で人口が急増した戦後と、その後の盛衰

 さらに一帯での大きなできごととなるのは戦後、最上町に満州や樺太からの引揚者のための市営住宅が建ち並んだことだった。これにより、昭和23年~26年にかけて山の手地区の人口は急増し、目抜き通りとしての第一大通りの賑わいに拍車が掛かる。

 昔は通り沿いにさまざまな商店がびっしりと並んでいたものだと、往時を知る人はなつかしむ。食料品はもとより、本、洋服、薬、畳、桶、金物……となんでもあって、日常生活に必要なものはすべてこの通り沿いで事足りたという。そうした街の賑わいにかげりが見え始めたのは昭和40年代に入るころから。直接の原因としては、近隣にスーパーができ始めたことが大きかった。現在、通り沿いで日用品を扱う商店はごくわずかで、食料品店は2軒の青果店のみと寂しくなった。

 元小学校の社会科教諭である高橋悦郎さん(昭和15年生まれ)は幼少の頃から今に至るまで、途中の昭和37~48年、道東に赴任したのを除き、ずっと緑町に暮らす。地元の郷土史を調べるかたわら、街の盛衰を自らの手で記録する作業も行ってきた。第一大通り沿いに並ぶ店の閉鎖、名称の変更、新たな開業、建物の取り壊しなどを手描きの地図に書き込むというものだ。自身にとって馴染み深い街が変化していく様子を形に残してみようとの思いで、最初の地図を作ったのは1959年、その後に作った新たな地図にも随時手を入れ、身近な街の歴史を語る貴重な資料となっている。

ひとつずつ名前を付けられた中通りが15も

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  緑町では第一・第二大通りのあいだを結ぶ中通りに、ひとつずつ名前が付けられている。その数は15。地域で独自に通りの名前が付けられるケースは花園の飲食店街などにもあるが、これほどの数がまとまっているのは、市内でもおそらくここだけだと高橋さんは話す。「私が子どもの頃は〝なになに通りの誰それの家に行く″というように使ったものです。今の若い人には通じないでしょうね」と高橋さん。「大通り沿いに商店が多かったころは〇〇屋の角を入ったところが〇〇通り、というように憶えましたけれど、今はそれもなくなりました。」とも言う。これらの通りの名はいつ、どのように付けられたのかー。高橋さんの父も教職にあった人で郷土史に関心が深く、命名の経緯を調べたことがあったが、明確な答えは見つからなかったという。

 通りの名には樹木や花など風雅なものが多いが、正法寺、直行寺と寺の名を付けたものもある。また〈緑湯通り〉は、第大通り沿いにかつてあった銭湯の名にちなんでおり、昔の通りの面影をかすかに偲ばせる名称となっている。

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IMG_3947より

IMG_3851緑町第二大通

IMG_3855緑町第一大通

CIMG3911この地図を作った方