取引所界隈 その1
2016年01月06日
小樽米穀取引所は今の産業会館と電話局新館の一廓の中央にあった。
その頃の商店街、今でいうメインストリートは色内大通りで 〇井呉服店をはじめ商賣軒を連ねて大層賑やかなものであったが、稲穂町浅草通のこの一廓は取引所を中心にして形成されていた。大正初めの頃のことである。
その木造ペンキ塗の少々気取った建物の取引所を囲むようにして取引員の店と住居が建ち並んでいた。米商と呼ばれる派手な商売の人たちにしては格子づくりでのれんを掛けた古風なものであった。明治三十八年の大火でこの辺も全焼して、その後建て直したものなので、左程古くなくガッシリしたもので、取引所の正面の通路は石畳みにしてあり、安普請の覆い新開地小樽にしてはこの辺りは別段の風情ある一廓であった。
稲穂小学校の同級生の中で稲積、小倉、碓井などはこの米商の児達であった。
更に取引所の外側の通、小路露地にはあぶと(合百師)と呼ばれた正規の取引員でない相場師の人々の家が散在していて、そこにも多くの同級生がいた。
この児達と取引員の児達とは服装で一目で解った。その頃の学童の姿は筒袖の着物に小倉の袴をつけたものだが、久留米絣の着物を着ていればそれは良い家の児であった。着物が縞であったり、絣が対でなかったり、中には羽織を着ない児もいた。
足は藁靴か朴歯の高下駄を履いていた。中にはゴム靴を履いていたのが五十人の級友の中で十人位もいたろうか。その頃のゴム靴はカナダ製でホワイトベアーというマークのもので可なり高価であった。下駄台の裏にすべり金具をつけたゲロリを履いて来る児もあったが、これは禁制で見つかれば担任の先生にこっぴどく叱られた。その頃の担任は一番こわかった。
近ごろ日々行き交う稲穂小学校の学童たちの服装がどの児も大変に綺麗で、筒っぽ袖の袖口を鼻水でテカテカに光らした昔の悪童共の姿とは較べようもない。
物が無かったばかりでなく、貧富の差も大きかったのであろうか。
その頃取引所の相場は電報で入った。その電報が入ると振鈴が鳴らされて場立ちが知らされた。それで近くの取引員の店から番頭がたが集まる訳だが、一緒にあぶと連中もわらわらと駆けつけるのである。この人達は場の立たない時は全くなすことがない人達で花札遊びが仕事みたいなものであったから、ソレッとばかり札を放り出して慌てふためいて駆け出してゆく、その姿が見ものであった。越中褌に肌子が一枚。尻っぺたを掻きながら走って行く姿など、今の方々に想像がつくであろうか。
裏に新宮という家があった。歴とした取引員であったと思うが、その裏二階で花札賭博を開帳しているところを警察に探知されて刑事にふみ込まれたことがあった。警察では兼ねて目をつけていたのだという。夏の夜半であった。時ならない騒々しさに寝入りばなを起こされて裏窓からのぞいたところ大変な騒ぎであった。
現行犯で抑えられては大変というので、我先に窓から逃げ出したのが、屋根をすべっておちるのがあり、大胆にとび降りはしたものの腰か足をしたたか打ってうずくまって唸るもの、押した押されたとわめく女。
蒸暑い夜で、勝負に夢中の連中だから男も女も大方は肌もあらわで、浴衣を着たものなど一人もいない。肌子に腰巻、細紐一本という。今はこんな姿も見る由もない。
それが我勝ち逃げまどうのだから、赤あり、水浅黄あり、淡紅色も交って落花狼籍。ストリップどころではない。そんなものも無い世で児共心にも怪しく目を瞠ってかたづをのんで見入るばかりであった。
さて。その翌の日はこの辺り森閑としたもので人の気配もなかった。一網打尽警察に拘留されたためで、さすがの喧噪の巷もひそとしていた。この辺りはこういう人々の領じた街であった。
然し取引員の家となればそんなものではない。ここから東京に進出。天下の大相場を張った室清次郎を出したところでもある。
~タイムマシン小樽 田辺 順
月刊 おたる
48年3月号~48年12月号連載
この辺りにあったのでしょう
そば会席 小笠原
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