川又健一郎宅についての考察㉕

2016年02月21日

 川又商店、旧川又商店、早川支店、早川商店、旧早川支店などいろいろな呼び方で呼ばれるのは、なぜでしょう。

 どれも間違いだとは言えないでしょう。

 しかし一つの建物が色々な呼び方をされるというのは釈然としません。

 小樽を代表する商家建築・小樽商人の心意気を現した建物・完成度の高い石造商家建築・大火後復興建築第一号・繊細な和風意匠でまとめられています…など貴重な建築物であるはずなのに、その心意気を示した人物にスポットが…。

 

私の知る限りでは

①川又家は越後新潟で俗にいう豪農である。

②森正則(衆議院議員)とは同郷の関係で深いつながりがあった。

③川又健一郎の妻と早川両三の妻は姉妹であった。

④早川両三はたくさんのグループを持ち、同郷の絆とか兄弟の関係で特別な存在だった。でも商売は各人の自由な発想(何ら干渉も掣肘もしない自由平等)で商売をして貰っていた。

 

~小樽商業会議所(商工会議所の前身)創立議員の顔ぶれ・明治29年(1896年)

1 漁業      藤山要吉・山田吉兵衛・渡辺兵四郎

2 工事請負    鈴木市次郎

 醤油醸造      早川両三(新潟出身)

3 運輸=回漕   塩田安蔵

    回船宿  渡辺三蔵

  卸=海産   町野清太郎・新谷喜作・広谷順吉・遠藤又兵衛

   =水陸産  西川貞二郎・白鳥永作

   =米穀荒物 板谷宮吉(新潟出身)・林清一・高橋直治(新潟出身)

   =雑貨荒物 井尻静蔵・三木七郎右衛門

   =呉服太物 石橋彦三郎・榎幾太郎

   =依託   田口梅太郎・田中武左衛門

 小売=小間物  堀井音次郎・奥山清左衛門

   =薬種   直江久兵衛

⑤川又健一郎は明治38年に自宅兼商店となる当該建物と裏の石蔵を 自分の力で建築し、墓石などは新潟から取り寄せて新潟の石工を呼んで彫刻させるほどの財力を持っていた。

 

その謎は、こうだと推察されます。

考察 早川本店初代・早川両三はいち早く小樽にやって来て事業に成功(明治15年開業)。

その後やって来た川又健一郎(明治25年来道)は働かせてもらったことに恩義を強く感じていた。支店を持たせてもらったことに。

 川又健一郎は自分の財力で川又商店及び石蔵を明治38年に建てた。しかし恩義を忘れず、あえて川又商店とせず早川支店としていたのかもしれません。そして大正時代に入り、恩義を十分に感じた早川両三が「もう川又商店という名前にしてもいいのでは?」と独立をさせてもらったのではないでしょうか。

 早川両三の奥さんと川又健一郎の奥さんが姉妹でであったという事実。ということは二人は義兄弟なんです。

 店を再建した時点で、「川又商店としたら?」と言うと思うのです。

 それでもあえて川又商店としなかったのではないのでしょうか、川又健一郎は。

 

 IMG_3250の本文の中に

「海陽亭の興り」

 海陽亭の始まりは安政初期、松井某が魁陽亭の名で始めたのが興り、とする説があるが定かでない。この松井というのは初代越中屋旅館主人の乾児で元官船通済丸の賄い方をしていた男とされている。(乾児・・・その昔よそ者が新天地で定住して職を求めるには、先住者の中の顔役的人間に挨拶をして許しを乞う必要があった。この掟を守らなければ、定住して職に就くことができなかったから、よそ者は身元引き受け人である親分に対しては、特別の敬意を払い、又親分はこの子分の行動に対しては責任を負った。この子分のことを乾児と呼んだ)

 と、あります。

 『誰がこの建物を建てたのか。』ということが大事だと思います。私は、建てた人の名で呼ぶべきだと思います。

 

越後屋のおとうさんも言っていました。

「私は、石川県出身です。しょっぱい水を越えて一緒に亘って来たものは、親戚以上に情が移るものなんです。いつまでも付き合うんですよ。」と。

 

『私はあえて言いたいです。この建物は《川又健一郎宅》または《川又健一郎商店》と呼ぶべきです。そして説明の中に早川商店の支店としてスタートした事も伝えるべきではないのでしょうか。』

『小樽市及び小樽教育委員会は、この建物を建てた御本人に敬意を示すべきでは…。』

『そう思うのは私だけでしょうか。』

IMG川又商店

(敬称を略させて頂いたことをお許し下さい。

上記の写真のみ無断転載を禁止します。)

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