オタモイの象徴・唐門

2017年09月06日

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 大正末期から昭和の初期にかけての小樽は、ニシン漁を中心として、街は活気にあふれ、隆盛を極めていた。オタモイ海岸の断崖の通路山門の建設、白蛇弁天堂、演芸館、そして龍宮閣、遊園地に自動車道の建設など、次々と観光地、オタモイとしての準備がなされていった。

 子宝地蔵として有名なオタモイ地蔵には、朝夕、お参りの人が断えなかった。オタモイ地蔵尊の参詣人の多くが、地方の人であったから、その案内として、国道と列車から良く見える場所として、国道から約二〇〇メートル入った所に案内門(唐門)を、建てることとした。唐門建設に貢献したのは、花園町の「蛇の目寿司」経営者、加藤秋太郎氏であった。

 彼は、明治四十二年二月、小樽に来て以来、いち早くオタモイ観光に目をつけた。親友の建築業、大虎組の高根八十松氏と共に中国北京に渡り、「古代」唐の時代の建築を色々勉強して帰朝した。

 唐門を見て、龍宮門と呼ぶ人が多いのは、古代中国の建造物の姿をとどめているためである。

 加藤秋太郎氏は建築設計責任者を、親友・高根八十松氏に依頼すると共に、発起人に、林多次郎・広部幸太郎・山屋寅之助・佐藤辰之助氏等が名を連ねた。

 小樽市長はじめ、一般の人、そして芸能人の柳屋金語楼氏等の献金協力により、総工費の一五二六円が集められた。

 主な寄附として、蛇の目寿司三〇〇円、広部幸太郎氏三〇〇円、などがあり、一般の人でも五円から一〇円、少ない人でも五〇銭程度の寄附があった。

 貨幣価値の基準を米価で計算してみると、当時米一俵、三円五十銭、現在一俵一八〇〇〇円位としても、約五一〇〇倍位となる。

 総工費の一五二六円は、現在の金額に換算すると、おおよそ、七五〇万円から八〇〇万円位となり、三〇〇円の寄附となると、一五〇万円から一六〇万円位程にもなる。

 建築方法は正倉院の校倉造と同様、釘を一本も使わない工法を用いられた。

 昭和七年完成された時、人々はその美しさに、目をみはったものであった。

 昭和三十九年十一月、オタモイに市営住宅が建設され、次第に住民地オタモイとして、脚光をあび、住宅、商店等が、年々増加し、交通事情も変ってきたのに、対応して、昭和五十四年の秋、唐門はオタモイ海岸の途中に移転された。

 現在小樽観光の目玉、オタモイから、祝津への遊歩道の入口に位置し、新しいオタモイ観光の玄関口として、五十年の歴史に耐え、その美しい姿を見せている。

~オタモイ・幸地区のむかしより

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