安達市政と今は亡き忘れ得ぬ人々 (二)

2015年08月31日

 安達市政は政治的に一期、二期は革新色が濃く、三期、四期は保守系とみられていた。これは偶然にも道政と連動し、田中道政、町村道政に直結した市政の展開となった。もちろん、安達市長は無所属であり、いかなる党、いかなる階級にも拘束されない全市民的な立場を終始貫かれたのである。

 当初、安達市長が革新、保守の合同でどちらかといえば保守の本流 自由党と対決したため、道とのパイプはともかく、中央各界における橋渡し役として頼りとされたのが後に初代日本道路公団の総裁になられた岸道三氏である。当時岸氏は同和鉱業(株)副社長・経済同友会代表幹事をつとめられ、戦前近衛首相の秘書官として、また旧一高、東大時代、ボートを通じてのひろい人脈をもつ有力者で、安達市長とは幼少時代よりの友人でもあり、郷土のためならこの際ひとつ力を貸そうということで、安全保障費による札樽国道の舗装整備、第三埠頭の建設工事事業推進、道路公団総裁としては札樽バイパス建設など、その他市長は中央官庁筋への重要な陳情に当たって岸氏の全面的なバックアップを得たことがどれ程心強いものであったか身近にいても感じられた。岸氏は終戦后直ちに政界進出を目指して準備のため帰樽されたとき、追放令によってその途を断たれたのであるが、安保闘争で国会議事堂をとりまく大規模デモの夜、安達市長と夕食をとり乍ら当時の岸内閣を指して、あの追放令がなく政界進出が実現してゐたら岸は岸でも別の岸内閣を作っていたんだがなあーとしみじみ述懐されたそうであり、事実中央政財界を通じ、豪放らいらくしかもきめこまやかな人格からいって将に大人物の風格をそなえていた人だと、よく安達市長は語っていたが、昭和三十六年春に道路のノーベル賞といわれるザ・ワールド・ハイウェイ・マン賞を国際道路連盟から贈られ、東京会館で祝賀会が催されたので市長の共として出席したが、日銀総裁、国鉄総裁、都知事からスポーツ・文化・芸能人等々、著名人が溢れ、その交友のひろさと、それぞれ代表のスピーチをきいて岸氏の実力がいかばかり偉大なものかを目のあたりにし、感嘆した。その中で長身の岸氏がいささかの気負いもなく微笑されていたのを思い出す。札樽バイパス計画の調査に岸氏が来樽されたとき、花園町の吉野鮨で市長等と昼食したとき、「天下国家の大事をやり遂げるにはトップの果敢な決断力が大切だ、ところが近ごろの大学を卒えた教養のある人間やいわゆる官僚はなにごとも慎重に考え石橋をたたき過ぎるのでどうもだめだ。ナショナルの松下氏など学歴こそないが大事を即断即決する。だめでも一から出直せばいいという根性があるから、のるかそるかの重大岐路で肝のすわった決定ができる。これで今日の大ナショナルを築き上げたと思う。その点私も教養があり過ぎて困る」と安達市長とともに「お互い教養があり過ぎるな」と大笑いしたことがある。そんな飾り気のない岸氏は、人情に篤く中学生時代の友人の家庭のことをきめこまやかに市長に頼んだりするかと思えば、東京に帰ると当時政界髄一の実力者であり道路公団の監督庁にあたる建設大臣河野一郎氏と対立してゆずらず(原因不明?)大いに反骨振りを発揮、河野建設大臣は激怒し、「岸総裁の構想にはすべて反対、従って札樽バイパスも不可能」という話が噂として報道された。この岸氏が三十七年三月に急逝され、安達市長は非常に悲しまれた。人間としてはもちろん、安達市政のバックボーンとして岸氏の果たされていた役割がいかに重大であったか改めて思い知らされた。この時点で立ち消えとなった札樽バイパス岸構想は、それまで道路公団内部でも採算割れから反対論が強いにも拘わらず、間もなく河野建設大臣の逝去という関係もあったためか、亡き初代総裁の情熱と遺志を達成しようという普通では考えられない道路公団の積極的な姿勢で着工されることになったことは、岸氏の比類なき徳望を物語る一例である。

~安達与五郎追悼録 安達市政回顧より