立体高架と札樽バイパスのころ
2015年08月16日
一、小樽南樽間国鉄線の連続立体高架化複線事業
(ァ)現在国鉄小樽駅から札幌行に乗車すると列車は富岡橋と稲穂小通りの道路橋の下をくぐり抜けて、漸次高架構造の軌道の上をはしり、商大通りの上を跨道橋でまたいで(以前は道路が鉄道の上を通った)同時に国道五号線の上を通り花園町でかつての花園踏切(昔は二ヵ所)の上を通り公園通りの花園橋の下をくぐり抜けて花園病院前通りの踏切から自然にさがって南小樽に到着する。この間わずか四分位のもので道路交通には何等の支障を及ぼしていない。
稲穂小通りの道路橋
商大通り上の
跨道橋
花銀 上を
この現況は現在では市民に何の不思議も感じさせずに自然になってしまったが、この現況になるためには、小樽市民は勿論、市長としては長年に亘る難事業で完成までには各機関との折衝に誠にご苦労な事であった。
(ィ)昭和三十六年この事業に着工までの当時の状況を知る人も少なくなったが、古い方はご承知の通り列車の通過毎に各踏切では遮断機が何回も降りて市民にとっては色々な面で、不便であり損失が大きかった。
・国道、市道と何ヶ所も踏切で平面交差する函館本線(日露戦争の時手宮線の南小樽駅と函館本線の小樽駅を反向曲線で結んで開通したまま)の各踏切は一日百四十回以上も道路交通を遮断してその合計時間は約四時間近くにもなる状況であった。昔から妙見川通り(今の花穂中央線)を境にして南北に延びている交通関係は勿論、経済的にもこのロスの時間を金に換算すると小樽市経済界は勿論、余市ー札幌間の広域的交通に支障する事は大変なものであった。小樽市はこの隘路を解決しなければ経済的に立直らないとまでに強く批判され市議会から強く要望された。
(ゥ)国鉄当局にしてみると平面交差の状況で何の痛痒もかんじていなかったので並々の要望や陳情では全々問題にされなかった。市長就任后十年を経て、安達市政第三期(三十四年ー三十七年)に入っての一大重要案件であり、この解決が出来なければ第四期もあやふいとの悪いうわさも出るしまつであった。
(ェ)三者協定の特徴
国鉄の平面交差解消のための高架事業は、国鉄が主体性を持ち、然も国道踏切の解消のため国鉄に併行して建設省が相呼応して応分の負担と事業を同時に施工しなければ、国鉄の一人相撲となり事業は全々成立しない特徴があった。又市道の中には警察前通りと商大通り、花園第一通り、花園公園通りと都市計画街路があるため、建設を建設省でも都市局関係の事業認可と国庫補助金を付与してもらわないと市の事業も出来ない事情下にあった。
・いろいろな協議が何年か続いて甲(国鉄)、乙(建設省)、丙(小樽市)とのとの三者同時協議締結しないと事業に着工出来ない、全国でも前例のない性格的にむずかしく、然も東京以北では初めての一大事業であった。察するに中央関係機関では歴史の浅い北海道の一小都市で、それまでにしてまで平面交差解消をしなければならないのかとの認識が当初は非常に強かった。
(ォ)国鉄に対する陳情と全国的興論喚起
陳情開始当時国鉄踏切の平面解消を要するヶ所は国鉄関係でも二百ヶ所もあり、札幌鉄道管理局長や国鉄北海道総局長に対して、市長は市議会の協力を得て何度も陳情し、又国鉄本社の建設局長や理事にも再三再四お願いの陳情を続けているうちに一-二年を経過してしまった。
・当時市長は小樽出身の在京各方面の責任者や色々の大家にも小樽の問題について、上京のたびに説明して、何等かの協力を要請していた。
そのさなか小樽出身の大文筆家として有名な伊藤整氏が中央の有名な「A」週刊誌に踏切交差の窮状を写真入りで郷土小樽の経済界に及ぼす悪影響を大論陣をはって相当のページ数で発表された。これが全国的に知れ渡って「北海道の小樽(本州人の発音)という所はひどい大変な所だね」というわけで上京の車中で小樽の話が出ると、この記事をみた人の話がぽつぽつ聞けるようになった。
・こうなると国鉄も余りつれないそぶりでいられない状態になって来た。陳情の当初は札鉄局の工事課に陳情打合せにいっても「国鉄という所は新しい企画に対し陳情を受けてからどう取扱うかが決定するまでにゆうに二~三年かかるのだから余り性急に考えられては困る」という話を何度もきかされた。
また国鉄側の事情をきくと、踏切り解消問題は各地総局長が国鉄総裁の前で開催する国鉄理事会で取扱い方針が決定され、その決定の順序で予算付けするので、方針が決定しても工事着工までには相当の年数がかかるような状態であった。
・そのうえに北海道総局長であられたB氏が国鉄本社の建設局長に栄転され、この問題の全国的取扱いの責任者になられたので、国鉄理事として安達市長の懇請を本格的にきかねばならぬ立場になり大変好意をもって接していただける一段階進展状態になった。でも当時小樽の踏切解消は全国的取扱いの順序でいくと二百番以下であとあと何年で事業決定になるか不明で、市長の責任・心痛はたいへんなものであった。
(ヵ)国鉄S総裁に直接お願い。
たしか昭和三十四年の秋の定例市議会で、この問題解決の見通しを強く議会側から要求された事があったが市議会中で、市の幹部は国鉄本社にだめ押しに上京する事が出来なかった。
このとき市長の深慮は当時の国鉄S総裁に直訴して小樽の窮状をうったえなければならぬと考えた。実はS総裁の夫人は小樽市の隣の余市町の有力家C氏の御息女であることを市長は以前から承知していられた。
それで市長はC氏に依頼してS総裁に面接方の斡旋と、余市町としても国道五号線につながる町として小樽ー余市間の交通隘路解消のため、小樽市内の国道平面交差解消の緊急必要性の陳情書を作成していただき、小樽市長として懇願の親書とを持ってー余り目だたない担当課長がよいとの市長の密命を帯びて上京した。
・指定された通りS総裁が朝食がすんでご出勤前の時間に総裁の私邸の奥の和式のお座敷の部屋にお通しいただいた。総裁は故夫人の仏壇にお灯明を立て、和式のテーブルの前に正座してにこにことして面接をいただいた。御親類の余市町のC氏のお手紙や小樽市長の親書に一通り目を通されて、又昨夜C氏からの電話で、概要を承知していられたようであった。
ややして顔をあげて市長のお手紙に依ると詳細については担当課長から説明申し上げるとあるが君からも一通り説明をしなさいとのご指示であった。私は有難いお思召しと思い三十分位にわたって、国鉄当局と建設省への請願の経緯や市長の決意等を説明申し上げて、国鉄出身者で市の担当課長としても、前述の三者協議に対し建設省側の協力に対し市議会のバックのもとにこの問題の解決にこぎつけたいむねを正直に申し上げ市長に代って懇願申し上げた。
・その後本社のさる方から聞いた話であるがこの直訴直後の国鉄理事会でS総裁から時の建設局長や担当理事に対し、小樽市の平面交差解消問題は国鉄としてどうなっているのかの質問があり建設省側の協力に国鉄としても努力し早急に進展させるよう指示があった由であった。
そのお蔭でその後国鉄現地局としても以前と変った積極性を持った態度に変り、聞くところに依ると全国的取扱順位が最後から三番目であったのが一大飛躍して頭から三番目以内に入り、国鉄と建設省の事務折衝は漸次進み、昭和三十五年で三者協定の締結の事前協議や三十六年で予算付けと進展するに至った。
それ以降安達市長は平面交差解消実現への確信をお持ちになり議会答弁も明快な力強い解答をされるようになった。
議会に出席して直に聞いている我々にも一陽来復の感が浮び、私達にも市長に代る陳情が出来るという経験をさせて下さった市長のご決断に依り処世術の一大勉強となって今でもわすれ得ない思出であった。
(キ)国鉄天皇”“と”建設省天皇”の所在と小樽方式に依る三者協定の成立。
・全国的に所在する国鉄と道路への平面交差解消を処理するためには、建設省と国鉄の間に「建国協定」と称する基本協定や、その他実務規定があり、これに沿うて更に各現場の特殊事情を加味して計画して実際の協定を締結することになっていた。
そして小樽の場合は、国鉄と国道(道路局所管)があり、更に何ヶ所かの指導の中に建設省都市局の関係する都市計画街路が含まれていて、連続立体交差としては前例のない、東京以北では初めての大事業で、官庁的に考えると非常にむずかしい問題が数多く伏在していた。
・協定の事前協議が深まるにつれニックネームであるが、“国鉄天皇”と“建設省天皇”といわれる方の所属する機関がある事が判った。全国的に何十ヶ所も未解決のヶ所があって、着工はおろか協定も出来ないのは、国鉄と建設省にもどうしても事務的処理上さけて通る事の出来ない機関がありそこのベテラン課長補佐を関係者は“天皇”という愛称で呼んでいて然もこの天皇なる課長補佐が決済しないものは、課長、局長もOKにならずついには廃案になる事がたびたびあった由に聞いた。全国でも何十ヶ所もある審議未解決ヶ所は国鉄と建設省の主張が相入れず又お互いに利害相反するため両天皇の主張がくいちがってお互にゆずらず結局未解決になるのが通例であった。それとも甲市で国鉄の主張を通すと乙市ではどうしても建設省の主張を通さねばならずこれに依って各機関の負担金額に大きな差違が生ずることと、お互に主張の貸し借りが出来るためなかなか解決が出来ず、陳情や政治力を発揮しても解決出来ぬ市が多数あり、そんな事情からも国鉄総裁の耳に入る事等はとうてい考えられない次第であった。
・市長の提案・小樽方式に依る協定。
小樽市の場合は非常にむずかしい特殊事情が潜んでいてこの両天皇の主張の通例にひつかけられるとこれまた大変な事になるのは明白であった。市ではどうしてもこの問題の解決をみるため小樽商工会議所、市議会や市内の関係機関をあげての期成会を結成して市長をバックアップして中央陳情に期待をかけていた。
甲(国鉄)乙(建設省)丙(小樽市)の三者協議の事前交渉の際、市長はこの両天皇にももまれて、どうにもならぬ事を早く察知して、関係者に次のように提案した。
「小樽市の問題解決にあたっては、過去何年かの慣習を前例とせず、しかも今回小樽市の場合の解決の方策は今後とも絶対に行政上の前例としないという約束で協定締結着工にこぎつける方針で話し合いを進めていただきたい」その代り市長として出来るだけの負担に努力するという事を言明した。この事は丙の小樽市が行司役で、甲、乙、の調整を図る事が出来る特性もあったが、何んと言っても市長の決断に依るもので、市会の承認をとって返事するようでは成立しなかったであろう。この提案のおかげでこじれていた話し合いも氷解して漸次進展した。その結果小樽市は総工事費の約二十二%で一億三千五百万円を負担することで協定締結の目途がついた。
・損をして徳をとる結果
ところが市長の提案に好感をもった北海道庁、小樽建設開発部、国鉄の現地機関では小樽市に超過負担をさせるのは気の毒であるとの趣旨から色々な面でめんどうをみてくれたので小樽市は実情に於て損をしないように終った。そしてこの事業の付帯として国鉄の仮線工事の結果として小樽―南小樽の在来単線部が高架の複線となりおまけに電化の基となったので列車回数の増加や運転所要時間の短縮となり、市の経済的発展のため好ましい結末をもたらした。
・昔から“損をして得をする”と言う古語があるが安達市長の決断で難産から安産にこぎつけて陳情当初のおくれをとりかえしてあとの鳥が先になった感がする。小樽市の問題以降旭川市、北見市、室蘭市、その他から何回も見学や視察に来訪されて、あのむずかしい平面交差解消の協定にこぎつけたのにはどんな秘訣があったか何度も質問があったそうであったが、市長からどんな説明があったか私達の知る由もない事であった。
小樽市の平面交差解消は市民と市長の熱意が身をむすんだが、市長の深慮決断と関係者のどなたからも敬愛された仁徳のもたらしたものでほんとうに有難い事である。
職員の拍手に迎えられて初登庁(昭和38年5月)
~安達与五郎追悼録
石井 郁夫(元小樽市土木部長)
立体高架と札樽バイパスのころより
そば会席 小笠原
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