小樽運河~前途多難な歴史遺産

2015年10月22日

 保存か、一部埋め立てか……。その議論は別として、小樽運河が、小樽を代表する、歴史的建築物であるのは確かだろう。 延長千三百二十四㍍。幅約四十㍍。大正三年に起工し、ざっと十年の歳月を経て同十二年九月に完成した。

 運河は別に珍しいものではない。古くは紀元前、古代エジプト時代にナイル運河が築かれているし、スエズ運河やパナマ運河も小樽運河の前に誕生している。

 わが国でも、明治十年には宮城県桃生郡に野蒜(のびる)運河が登場。東京や大阪など各地で運河が築かれている。

 だが、小樽運河は、それらの運河とは全く異質の、当時の常識を破った工法がとられた。

 当時の運河が、地面を掘って水路を築く“掘り込み方式”だったのに対し、小樽運河は、海面を埋め立てて水路を残す“埋め立て方式”を採用したのだ。

 この方法の最大の利点は港湾部の高度利用にある。単純な埋め立て岸壁だと船着き場は一面しかできないが、埋立地の中に運河を築いて両岸を利用すれば、船着き場は一挙に三倍にふえることになる。

 当時としては画期的な、わが国唯一の方式だった。この発案者が、北防波堤の建設で有名な広井勇である。

 ところでこの運河、当初は海面埋め立て計画でスタートした。しかし埋め立てには分譲をめぐる利権がつきものだ。小樽は商人の街だけに利権争いもし烈を極め、事態は紛糾して政治問題にまで発展する。

 発端は明治三十二年の海面埋め立て申請にさかのぼる。

 手宮幌内間の鉄道の払い下げを受けた北海道炭礦鉄道と、町営埋め立てを立案した小樽・高島総代理人とが、真っ向対決の同時出願したことから問題がこじれた。

 この出願を前に、炭礦鉄道側の政界の大物が、総代理人側と秘密会議の“裏取引”で出願内容を調整。これが外部にもれて、怒った町民が総決起大会で調整を御破算にするという騒ぎも起きる。

 それはまだ前哨戦で、ついには、炭礦鉄道側が、事を有利に運ぶため、総代理人の選挙を機に、上川や滝川、美唄方面からの農民約五千人を一挙に小樽に転籍させ、炭礦鉄道側の総代理人の全員当選をねらうという当時の選挙の盲点を突いた奇襲作戦まで登場した。

 この壮烈な争いも、明治三十九年の鉄道国有化でピリオドを打つが、その後も運河促進派、他地域の岸壁造成派などの議論百出。この間、五回にわたり設計変更され、結局、運河着工認可がでたのは、申請から十六年後の大正三年。完成までに実に二十六年を経過している。

 そして現代……。保存か。埋め立てかの論争は訴訟にまで発展した。因果はめぐとは、こんなことをいうのだろうか。

~おたる今昔 読売新聞社編

昭和55年9月17日~10月21日連載より

IMG_0953雑然としながらも活気を見せる明治末期の南浜

IMG_0954保存か埋め立てかの争点になっている現在の運河。港湾機能も失った

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IMG_2775国道にマイクが

IMG_2777静かすぎる店も調べてほしいな‼

IMG_2802椎茸

IMG_2803収穫しました

~2015.10.22