色内十字街~し烈きわめた海運競争
2015年07月23日
土蔵造りの商家。レンガ造りのモダンな洋風建築ー。
色内大通りを歩くと、かつて繁栄を極めた商都・小樽の情景が、目の前に広がってくるような気がする。
このあたり、かつて本道経済の心臓部であり、世界に羽を広げた小樽商人たちのヒノキ舞台でもあった。そのなかで明治初期の最大の商戦といえば、三菱と共同の海運貨物の争奪戦だろう。
明治十年の西南戦争で、軍事物資を輸送して時の政府に認められた三菱郵便汽船会社が、同十三年に小樽と東京間に定期航路を開設。独占的立場を振るって海運業界に君臨した。
その目にあまる専横ぶりに、政府もついに抑制策に乗り出し、対抗馬として海運関係会社を大同団結させ、同十六年に共同運輸会社を発足させた。いわば毒をもって毒を制する手段に出たわけだ。
効果はてきめん。両社は猛烈な競争は始め、小樽から出入荷する貨物運賃は三分の一までに下落。ついには荷主に景品までつけて積み荷を奪い合うまでになり、小樽の商人たちを大いに喜ばせたらしい。
だが、両社の狂ったような意地の張り合いが長く続こうはずがない。両社とも大欠損して経営難となり、二年後の明治十八年、共倒れの形で両社とも解散し、新たに両社合同の会社が誕生した。 この新会社が、ご存じ日本郵船会社である。
写真では見えないが、この色内大通りを真っすぐに行った左手、現在は国の重要文化財となっている市立小樽博物館の華麗で荘重な石造建築物が、明治三十九年に完成した日本郵船の旧小樽支店だ。
大正時代には、色内を中心とした小樽は、さらに隆盛する。ニシンやカズノコ相場で財を築いた海産問屋。第一次世界大戦の戦禍でマメの生産が絶えたヨーロッパの穀物市場に、思惑買いした国内産アズキを送り込み、ロンドン市場までも揺さぶって膨大な利益を得た“アズキ将軍”ー。
逆に、ドイツのキング・シュルゼ会社など、海外の商社までも小樽に進出させて、国際的な商戦を展開した。
だが、いまの小樽に、かつての繁栄はない。商社も銀行も歯が抜けるように次第に姿を消した。いまでは斜陽とさえ、言われている。その原因は???…。
~おたる今昔 読売新聞社編
昭和55年9月17日~10月21日連載より
旧手宮線は日本郵船の近くまで整備されていました
手宮駅~旅客乗り場
手宮駅は二つあったんだ
気になる
民家も発見
明日からです
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