『73年前の小樽発 その2』~大正7年のマチの様子 25
2015年10月01日
大正7年の小樽…。前号では開道50年記念北海道博覧会のイベントを通して当時の小樽を振り返ってみた。
今月号では、更にこの年のマチの様子に触れてみたい。
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小樽の人口は明治のはじめ2230人であったが、この年には約10万人と大きく伸びていた。
商工業は輸出入も活発を呈し、輸出品は豆類、でん粉、木材、印刷用紙、硫黄、枕木、石炭、海産物…。
輸入品は豆粕、米穀、織物、酒類、タバコなどが主なものであった。
地元産業としては製綿、製鋼の機械工業。製油、肥料などの化学工業。みそ、しょうゆなどの食品工業…。
また、この年には北海製紙会社も創立している。
これに伴い、小樽商工会議所、北海道雑穀同業組合連合会、小樽取引所などの機関もフル回転したが、銀行が区内に17行もあったことは、その勢いを物語っている。
北海道、泰北、中立、日本、第一、三井、日本商業、中越、第四十七、協栄貯金、百十三、函館、樺太、不動貯金、北海道拓殖、第十二、拓殖貯金があった(銀行と、全部でないが小樽支店の文字を省略)
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新聞社は港町に小樽新聞社、東雲町には小樽毎夕新聞社、小樽商業新聞社、住初町に北海タイムス小樽支局、稲穂町に北門日報社。花園町には小樽日日新聞社があった。
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区内の日本料理店(当時は旗亭と呼ばれていた)の主なものを記すと次の通りである。
山ノ上町には開陽亭、東雲町には松の家、東雲。花園町では迎陽亭、竹の家、大政、嬉野、松島屋、桜クラブ、蛇の目、都寿司、四季の屋。堺町には中島屋。相生町には、さと浪。住初町には菊水。稲穂町には高田屋、瓢亭、桜屋、しゃも登、柳屋、仙台屋、梅里ん。入船町には一二三。色内町には千登勢、ときわ…などがあった。
西洋料理は、色内町に精養軒があった。旅館も越中屋、キト旅館など31軒もあった。
映画劇場などは花園町に錦座、公園館、八千代館、演芸館。稲穂町には神田館、電気館、中央座、寿館、富士館。豊川町に手宮館の10館があった。
以上は、開道50年記念博覧会開催の折に、小樽区役所が発行した「小樽案内」からその一部を紹介したものであるが、私はマチの勢いという点で相乗効果を感じるのである。
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大正7年といえば、小学校の国語読本に「ハト マメ マス」が発行されたり、児童文学運動として雑誌「赤い鳥」が創刊された年である。
この活動には芥川龍之介、島崎藤村、徳田秋声、小山内薫、谷崎潤一郎、有島生馬、森田草平、佐藤春夫、小島政次二郎、北原白秋、泉鏡花、三木露風、西条八十が加わり、続いて秋田雨雀、高浜虚子も協力した。これによって数々の童謡、童話が誕生したのである。
また、武者小路実篤が中心となって「新しき村」を日向に建設した年でもあった。
小樽に於いても、三浦鮮治、兼平英示の兄弟と、中村善策が主になって設立した小樽洋画研究所が、第1回の展覧会を東雲町の小樽俱楽部を会場にして開催している。
当時、活動写真といった映画は無声であったが、『春や春 春南方のローマンス神秘の扉をチョットあけて さらば語らん涙と共に…』という弁士の名調子を生んだ「南方の判事」と、『行こか戻ろかオーロラの下を…』の歌と共に若い男女の心をひきつけた『生ける屍』が上映され人気を呼んだ時代であった。
このような時勢の大正7年の小樽をみるとき、開道50年記念北海道博覧会は単に一過性のものではなかったと思えるのである。
一面においては、労働者の賃金引上げ要求ストライキもこの年起きているが、全体的に経済面、社会面をみるとそれはちょうど金太郎アメのように、どこから切ってみても小樽の顔がみられたのである。
大正7年における小樽の街並みを見る。
A 現在の中央通線(小樽駅前通り)で左の店が国際ホテル、右が長崎屋の位置。
B Aの位置から中央小樽駅(現在の小樽駅)をみる。
C 色内通り(駅前通りとの交差点)で右の建物が現在の井淵ビル。歩道の博覧会歓迎装飾もスマ―???。
D 劇場であった電気館(現在のギンザ、エルメ、スズラン3店の位置)前の仲見世通りの賑わい。中央の電気館屋上の灯りは、港に出入りする船の灯台にもなったという。
~HISTORY PLAZA 25
小樽市史軟解 第1巻
岩坂 桂二
月刊ラブおたる 平成元年5月号~3年10月号連載より
『母の生まれた年!』
そば会席 小笠原
北海道小樽市桜2丁目17-4電話:0134-26-6471, 090-5959-6100
FAX:電話番号と同じ
E-mail:qqhx3xq9k@circus.ocn.ne.jp
営業時間:10:30~21:30
定休日:月曜日