ハイカラな街小樽

2015年09月22日

 図書館で気になる文章を見つけました、数年前…。

以後、図書館に行くたびにその文章が書いてある本、冊子?を探しました。

どの本、冊子?にその文章が載っているかわからなかったのです。

どうしても見つかりませんでした。

それが、偶然なことに……。

 

『竹内千代先生(明治44年生) 北手宮小学校教諭の話』

 私が女学生(庁立札幌高女)のとき、遠足で小樽見学をしたことがあった。小樽公園等を見学した後、小樽庁立高女の講堂を借りて、昼食をとることになった。

 校舎はハイカラで階段教室に案内されて、席に着くと、まもなく小樽高女の生徒がやかんに入った番茶と湯飲み茶碗を持参して私たちのところへやってきた。私たちはみな一斉に、彼女たちの容姿、立ち振る舞いに注目し、一瞬静寂一時が流れた。

 彼女たちが退席し後ろ姿が消えると、どことなくため息が聞こえてきた。小樽高女の学生たちの優雅なこと、・・・。言葉づかい・物腰・・・。なんといっても服装が流行の柄物の着物と、紺色の袴姿に圧倒されてしまった。

 それに引き替え、札幌高女の学生たちは、その多くが木綿やかすりの着物に古着の袴で通学するのが当たり前と思っていた。

 小樽の女学生のハイカラな姿を目の当たりにして、うらやましく、自分たちが急に田舎者に見えてきた。

(小樽[街角の歴史]巷の話)一条守正談

※当時(大正13年)の頃の小樽は神戸や横浜のように貿易港としてヨーロッパの文明が入ってきて素敵な教会があったり、石造りの建物があってハイカラな街だったのです。~小樽歴史物語 山川 隆 著より

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IMG_0358小樽庁立高女卒業アルバム

IMG_0359真面目だった子に

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IMG_0823おたる今昔 読売新聞社編より

IMG_0191園井恵子

 

『竹内 千代先生の話が「小樽を調べたい。」と強く思わせてくれたきっかけの一つでした。』