文学の中の小樽 北原白秋 「旅窓読本」

2015年06月20日

 IMG_0065独特の情緒が漂う都通り

~「銀座並みのにぎわい」~

 箱館戦争で官軍に抗し、三年にわたる入獄の後、ふたたび北海の地を訪れた旧幕臣榎本武揚は、開拓使庁のすすめにより小樽の地所の払い下げを受けた。郷土史家に、よく知られている事実である。

 その土地は、高島郡の南側、現在の長橋、稲穂、富岡、花園にかけての一帯を指す。高島郡とは、明治三十二年(一八九九年)に刊行された「小樽港史」によると“けだしオコバチ川は小樽高島二郡の境界なり”とあるところから、現在の高島町を北限にしたかなり広範囲な地域を示唆したものといえよう。

 榎本武揚は、その土地十万坪を払い受け差配を置いて管理していた。さしずめ開化期版“不在地主”といったところか。現在の都通りから色内川にあたる道路を、武揚の別号である梁川(りょうせん)を取って“やながわ通り”と呼ばれていた時期があった。

 大正十四年(一九二五年)八月、詩人の北原白秋と歌人の吉植圧亮が来樽している。両人は、樺太観光団一行と共に海路を通って小樽港に寄港した。

 白秋はその折の小樽の街の印象を「旅窓読本」で次のように書いている。

 「全く、通りは広いし、電灯飾は華美出し雑沓する群衆も真夏の軽装だし、一々それらが鮮新な発光体となって遊泳して、両側のショウウィンドウの中までが、まるで水晶宮のやうに水々しく照り反すと、花屋がある、植木屋がある、それから活動小屋がある、絵看板がある、幟(のぼり)が並ぶ、銀座と六区とを一つにしたやうな殷賑(いんしん)がある。」

 ギンザ、アサクサに負けぬ大にぎわいとはかなりオーバーであるが、白秋は、現在のセントラルタウン、レインボータウンと横文字に衣替えした電気館通り、第一大通りを通り過ぎて公園通りの矢野倶楽部での歓迎会へと向かった。その折、二十六歳の青年歌人戸塚新太郎が、白秋に眼鏡を掛けた戯画を描いてもらっている。歌集「雄冬岬」の巻頭に掲載されている、あらいタッチのユーモラスなデッサンである。

(小樽文学館 木ノ内洋二)

 CIMG0881昨日、都通りへ

CIMG0879の前

 ディフェンディングチャンピオンとしては、やはり参加しなければ申し訳ない、ということで今年も…。

CIMG0886昨年に続き、揚げソバ二人前

結果は‼

CIMG0887お隣の商大生が、あっという間に

私はまだ、半分も食べていないのに・・・。

今年をもって、現役を引退です。

ごちそうさまでした。