うずまくニシン
2015年04月25日
(当時はニシン景気でたいへんなものだった=粒ニシンを整理する大正時代の漁師たち)
司会~近江さんどうですか、当時のニシン景気で思い出を一つ。
近江~ニシンはよくとれました。どこへいってもニシン景気でたいへんなものでした。
鈴木~ニシン景気で豪遊した代表的な人は白鳥さんという人です。当時は大変な評判でした。
司会~長嶋さん、一つ当時の感想を話してください。
長嶋~私の生まれは張碓です。それで銭函のことをよく知っているのですが、大正八年のときの大大漁というのはすごかった。なにしろ銭函から小樽まで何十㍍も線を引いたように真っ黒いニシンが続いていましたからね。それが何日もでした。
そして張碓のあたりでニシンが、うずまいていて、いそ舟の人たちがカイをたてても、ころばなかったほどです。
渡辺~当時の大大漁はほんとうにたいへんなものでしたね。
近江~朝里から銭函一帯はとにかく大騒ぎでした。なにしろニシンをとれるだけとってもまだまだあり、あとはとる道具がなくなってそのままにしてしまった。というほどです。
司会~能島さん、何か当時の印象がありましたらお願いします。
能島~拓銀が湯内のローソク岩漁場の一角の漁業権を担保に十二万円ぐらい貸し出したことを記憶しています。
渡辺~そうです。私の知っている小島さんの漁業権(ローソク岩漁場の三分の一)が十六万五千円だった。なにしろ借りている権利だけでこれくらいしたのですから。
司会~竹丸さんは…
竹丸~私は小樽の方はわかりませんが、寿都でしたらニシンがとれてたいへんだったことも記憶しています。
長嶋~張碓のトンネルのこちら側にギザギザした岩がありますね。カムイコタンですか。大正四年のときですが、その一帯にニシンが押し寄せてきて、一般の勤め人でもおかからちょっとなぎさにはいり、手でニシンをとったものです。
渡辺~大正八年にも築港にすごくニシンがはいってきました。いまの機関庫の埋めたてしたところにですが、とにかくたいへんなものでした。
司会~越崎さん、ニシン景気で何か深い印象がありますか。
越崎~私はニシンのことはよくわからないのです。でも景気がよかったことはよく聞いています。
司会~ところで、ニシンのことはまたあとで聞くとしまして、ニシンの次によかったものはなんだったのですか。
近江~これは雑穀ですね。大正七、八年のとき、堺町の妙見川から一丁か一丁半はいったこの間というものは雑穀でものすごいものだった。市中ではおかみさんや嫁、娘さんと一家あげて豆女工だった。そのくらい青エンドウが売れたね。それで物価がグングンと上がった。ちょうど開道五十年の博覧会のあったころです。
司会~そのときの女工さんの賃金はどのくらいでした。
能島~パートタイム出来高制度でしたのでよくわからないですが。
司会~だいたいのところはわかりませんか。
鈴木~最初、五十銭でしたが、大正八年ごろから物価が上がって一円五十銭から二円五十銭になったようです。
堺町一帯は当時仲買人とその使い走りでいっぱいだった。昼食のころは一般仲買い人が『ときわ』(註 牛なべ屋いまの名取商店の向かい)使い走りはソバ屋などを利用、一方取り引きはもっぱら夜で海陽亭か中島屋(当時堺町にあった。いまはアパート)で行われた。また旅館にも地方からきた人が泊まり、相場をやってにぎやかだった。とにかく第一次大戦による雑穀、でんぷんの景気は想像以上だったわけです。なにしろ豆女工の収入が一般官吏より多かったのですから。
~みんなで語ろう 小樽の町づくり
北海タイムス 昭和40年3月2日~3月17日より
手宮公園は
エゾヤマザクラは花が咲き始めていましたが、
ソメイヨシノの見ごろは、連休中になりそうです。
こちらも、5月の連休が楽しみ
そば会席 小笠原
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