はじめに

2015年04月21日

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 が、少女時代にはもっと楽しいことが多かった。身に余る程ぜいたくな調度品に囲まれ、美味なものを食して、多くの女中達につきそわれて、私は少女時代にその後は二度と味わえなかった豊かな生活を送った。そういった過去の後継の下に私の人生はあったのだ。少女時代に培われた豊かな趣味、正月の棧敷での角力見物、歌舞伎見物、正月の御馳走、宴会、当時、春の雛祭り、花見、潮干狩り、春秋の謡会、夏の避暑、別荘生活、琴のおさらい会、ピアノ会。すべて豊かな父の財力の上に築かれたものであった。

 お金は足りなくなったら、頼みさえすれば銀行からすぐ払われるものと思っていた。父に言いさえすれば、父はすぐ銀行に話し、銀行からお金は手に入るものと思っていた。銀行からの借り入れ、担保等という言葉を知ったのは、自分の家庭で自分が家計をきりもりするようになってからである。お金の大切さ、金のない不自由さ等もやがて知った。学校を経営するようになって、始めて金の重要さや価値を知るに到った。

 その後三十年、私は年中金に追いかけられる身となった。私の計画、希望、夢の実現にはすべて金銭がついて廻った。只ではそれらを手に入れることはできない。又、何かをやりとげたいと思う時、金の問題なしには何も出来ないことを思い知らされた。金の心配のなかった時代、金が重要になればなる程、過去が懐かしかった。金の心配を全然しないで、思うがままに振舞えた頃が非常に貴重に思えた。思えば豊かな財力を背景として、私の人生は展開されて来たのだ。

 だからその後の人生が苦しかったとしても、それは当然の報いであると思い定めて、その後は専ら前へ前へと突進した。人はそれをみて、私は旺盛な冒険心の人とか、進むを知って退くを知らぬ人とか評した。しかし私にはその批評が的外れに思えた。私はやみくもに夢だけを求めて前へ前へ進んだのではない。過去の豊かな時代への多少の再現を考えていたのである。その夢は半分も達成されなかった。私の少女時代はこよなく大きく、又豊かであったのだ。それを今再現する等不可能である。茶わん一つ、茶托一つにしても、私には全く手が出ないものばかりである。木平(古九谷)の銚子、輪島塗の吸物わん、膳、螺鈿の手箱、一つをとっても何千円、何万円とする。これらの調度品に囲まれ、大勢の召使いに侍られて、私は唯好きな学問だけしていればよかった。今からは想像もできない生活であった。私は戦後廔々思った。私の全盛時代、幸せな時代は過去にあった。あの時代のあの生活はもう二度とあるまい。

 大きな広い家、雅趣にとんだ庭、テニスコート、檜作りの手のこんだ細工の屋敷、透かし彫りの欄間、雪見障子、襖絵が画かれた紫のふさのついた襖、二間の広い床の間、いつもかかっていた広重、鉄斎の軸、桜の柱、柾の通った天井、十二帖の応接間、、大理石の出窓、その中に納められたスチーム、それは過去のよき思い出である。よく田名網教授が、昔の盛家の暮らしぶりは自分達にとっては、娘どもはお姫様のように見えたと言われるが、そういう幸福の中に暮らしていたのであろう。といって私共は決してぜいたくな怠惰な暮らしをしていたのだはない。朝早くから自分の分担の仕事(主に私は庭掃除)をし、暇さえあれば学問をして、御稽古事に精を出し、読書をし、針仕事をして、瞬時もゆっくりとぼんやりしていることはできなかった。いつも張りつめた、日課を一日忽せにできない心境の中で暮らしていた。何かに追いかけられるような緊張の日々を送ったと私は思っている。

 CIMG0004園遊会 大正11年頃

桜陽創立百周年記念誌より

(おしまい)