2015年04月19日

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 昭和二十四年の秋、午前一時というのに母は、東京・吉祥寺の私の家でお手伝いをしているとしちゃんのモンペを、せっせと縫っている。およそ半年の間、私の病気見舞いに来てくれていた母は、明日の朝九時には、小樽へ帰るための汽車に乗らなければならない。もう切符は買ってしまったから、延期は出来ない。それなのに、ああやってまだ縫いつづけている。あの分では徹夜でもしなければ出来上らないであろう。明後日の夜でなければ小樽へ着かないのだから、これから三十八時間、汽車に乗りづめである。もう母も五十八歳なのだから、今晩徹夜などして、明日以降は大丈夫であろうか?でも、一度決心したら決して変えない母だから、黙って見守っているより他に、仕方ない……。とつおいつ考えている中に、私は眠ってしまった。

 翌朝、七時、朝食をすませた母は、改まってとしちゃんを呼んだ。母はとしちゃんに座るようにといい、居住いを正して、恭しくお礼を述べた。「去年の四月の雪の日、のあなたの親切に対する、心ばかりのお礼だから」といって、縫い上がったばかりの飛白のモンペを彼女に贈った。。~当時は純綿のかすり地はなかなか手に入り難い品であり、母はかなり苦労して需めたようであった。~。幾度も、いくども彼女にお礼を述べて、母は帰郷して行った。

 私はその時はじめて、母が一年前のとしちゃんの真心(・・・やっと到着した小樽は四月の雪解け時に当り、道という道はすべてぬかるみ、まるで泥田の中を歩くようであった。小樽の人は皆、長靴をはいていたが、十八年ぶりで小樽の土を踏んだ私は、雪解け道ということを全く忘れて、駒下駄を履いていた。息子はとしちゃんがおんぶしてくれていたが、病後の私の足元はまことに覚束なく、ふらふらしていた。そして、遂に私はつまずいて、足袋ごと泥雪の中へ埋まってしまった。

 泥雪は冷たく、汚く、私は泣きたいような思いにかられた。と、としちゃん傍らへ寄って来て、ぼんやりしている私の足袋をぬがせ、凍るような足を自分の胸に入れて暖めてくれたのである。その上、自分は若くて元気だからといって、自分の足袋をぬいで私にはかせ、彼女は素足で何事もなかったようにさっさと歩き始めたのである。私は次から次から流れる涙で眼鏡を曇らせながら、家まで辿りついた。)を忘れかねて、少々くたびれていた彼女のモンペの代りの布地を探していたのだと知ったのである。

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