博物館
2016年04月22日
幕府時代本州と北海道の交通は不便極まる和船によったから洵に不便であった。冬期間は航海は殆んど杜絶していた。明治維新になり、開拓使が行政を始めるようになってまず第一に手をつけたのは西洋型帆船や汽船の採用だった。漸次日本型船の建造を抑え、西洋型船を奨励の結果航海は次第に安全となり明治十四、五年の頃には日本型船は主として日本海方面を往来し、西洋型船は京浜方面を主として往来するようになった。八年から、運漕会社の扱汽船玄武丸が小樽・凾館・東京間の定期航路を開始した。
本州に於いて優秀汽船を保有し、我が国航運の独占的地位を持っていた三菱会社も十三年には凾館~小樽間に定期便を開き、次第に触手を伸ばしてきた。三菱の独占的な地位に対抗するため共同運輸会社が政府の手で計画され、十六年からこの両者が猛烈な競争を始めた。両社は小樽中心の沿岸航路、内地航路並に船舶を増やしたので、小樽との取引は活発になり扱量は膨れ、運賃旅客賃共に低落した。
しかし両社の経営は悪化し、赤字累積となったので十八年八月合同の議が持ち上り十月資本金千百万円の日本郵船会社が設立され、手宮に小樽支店が開店した。爾来同社は日清・日露・第一次欧州大戦を経て世界的船会社となり、NYKのマークは五大州に知らるるに至った。
明治三十六年四月の手宮大火で木造二階建の郵船支店は焼失した。ここに於いて不燃質構造による新支店が建てられることになり、設計は工学士佐立七次郎(後に工学博士、我が国建築学会の先達)の手になったが顧問英人技師の案も採り入れギリシャ様式を起原とする英国式に則った堅実豪壮な石造建が竣工した。
棟梁山口岩吉(東京)、道産楢材を主とし、水火に強い天狗山裾の砂岩石や長橋奥軟石を用いた。金具・壁紙・タイル・シャンデリア・などは英国製でお手のものの自家船で運送した。本館一階百七十四坪、二階百四十五坪、附属家屋で三十九年十月完成、翌月早速日露国境画定会議会場として使用されたことは余りにも有名である。
戦後安達市長は小樽市に文化的潤いを加えるため博物館を設ける構想を持っていたが郵船支店が、位置が不便になった理由で市に売却の意が伝えられ、昭和二十九年正式に売買契約が成立した。
市は学識経験者や諸方面の意見を徴して準備を進め、三十一年六月二十日、盛大な開館式が挙行された。当時全道に於いて市立博物館は極僅少で札幌市にさえなだ無かった(今もない)。
内部は海洋・歴史・美術・鳥獣植物の四部門に分かれていた。
海洋室には郵船会社より寄贈をうけた豪華客船白山丸・営口丸・玄海丸等の精巧極まる模型、高田屋嘉兵衛が乗込んで北海道千島方面に活躍した千五百石積辰悦丸の模型を始め、船箪笥、廻船問屋仕切状・昔の航海用単眼望遠鏡・小樽港湾関係写真図面など所狭きまでに陳列されている。
歴史室は旧会議室を中心として最もスペースが広い。国境画定資料は全部郵船会社の寄贈、郷土史料では漁場請負人村山伝兵衛の遺品、近江商人にして忍路高島場所請負人西川家の経済活動の厖大な資料、明治時代の小樽を中心とした商工業関係の遺品、本道製作の陶磁器のコレクションなど珍しいものが多い。我が国考古学会では謎とされている所謂手宮古代文字を巡る学術研究資料の数々、アイヌ士俗品も揃えられている。
美術室には郷土出身美術家の傑作が一堂に展示されている。
鳥獣室は二室に分れ本道産のものと本道以外のものとに分れ、さらに植物・鉱物・貝の蒐集も相当量に達している。
因みに博物館の建物は昭和四十二年道文化財に指定せされ、さらに四十四年三月には国の重要文化財の指定を受けた。小樽の場合は博物館の建物自体が博物館的存在なのである。
越崎 宗一
月刊 おたる
昭和39年7月創刊~51年12月号連載より
『日本銀行の方が建築にかかった費用が多いですが、日本郵船の場合、船賃がかかっていません。それを考えるとこちらの方が、…!』
『明日は、臨時休業日です。お知らせ日記のページもお休みです。』
そば会席 小笠原
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